21 譲れないものが……あるッ!!


 なんで健気に目の前の事実から目を逸らそうとしているのに、現実リアルさんはことあるごとに頭を押さえつけて目を開かせるような所業をするのだろうか。


 幼女を苛めるとか、控えめに言って鬼畜かよ。


「あ゛ぁあ!」

「フッ!」


 ――ギギィイン!


 また火花が散る。


 仄暗い路地裏に瞬きの間だけ灯る火花は、それだけを見ればなんとも幻想的で美しい。

 でも、緊張を孕んだ息遣いや相手を刺すような鋭い視線が、すべてを刺々しくて触れ難いものに変えていた。


 リィルさんの針がゼタさんの頬を掠め、体毛が幾本か切り飛ばされるのを見る度に悲鳴が漏れる。

 ゼタさんのピッケルが一瞬前までリィルさんのいた場所を抉る度に、胸を突き破ってくるんじゃないかって思うほど、心臓が大きく跳ねた。


 二人の一挙一動が精神攻撃になってワタシを攻め立ててきた。


 異世界がこんなに身体に悪いなんて初めて知った。

 本当に、こういうのはワタシの知らないところでやってほしい。


「ラァッ!」


 鋭い気合いを発して、ゼタさんが空中で針を弾くのと同時に身体を捻った。

 同時に、右手に持っているピッケルを大きく振りかぶって投擲する。


 風を切って迫る凶器に、リィルさんは落ち着き払った様子で余波をくらわないギリギリの距離だけ後退した。


 ――ドゴォ!


 ピッケルが轟音と共に地面を穿ち、石片と砂塵を巻き上げる。

 間髪入れず、ゼタさんは地面に降り立つと同時に追撃を仕かけるべく地を蹴った。

 しかし、それを見越していたように立ち籠める砂煙の向こうから三本の針が飛び出してきた。


「二十八、二十九、三十ゥッ!」


 しかしゼタさんもそれを予め知っていたかのように針を避け、あるいはピッケルで逸らすように受け流して、速度を緩めることなく突っ込んでいった。


 ゼタさんの凄まじい速度に風が巻き起こされて砂煙は穴が開くみたいに払われた。


 向こうからリィルさんの驚愕に染まった顔があらわになる。

 戦闘が始まってから頑なに変わらなかったリィルさんの表情が初めて崩れていた。


 しかしその時には、ゼタさんはリィルさんの懐まで移動していた。


 地面を滑るように移動して、ピッケルに繋がった紐でリィルさんの上半身を両腕諸共縛り上げ、もう一本のピッケルも地面に突き刺しリィルさんを拘束する。


「これでぇ……詰みだッ!!!」


 素早く腰に背負っていた鉈を抜き放ってリィルさんの喉元に突きつけ、ゼタさんは勝鬨の咆哮を上げた。

 肩で息をしながら山羊とは思えない獰猛な笑みを浮かべて、地面に縛りつけたリィルさんを背後から見下ろしている。


 完全に決着のついた二人の姿に、ワタシも両手の拳を握り締めた。


 ――や、やった……ゼタさんが勝った! これでテメェも終いだぁ、シリアスゥ!


 腰が抜けて立ち上がれないけど、心の中では跳び回って散々に暴れ回ってくれたシリアスさんをこれでもかと踏みつけておいた。

 あとはリィルさんを説得して落ち着かせてから、ゼタさんに事情を説明すれば万事解決だ。


 ――サヨナラ殺伐、お帰り平穏!


 安堵のあまり涙腺とか下の詮とか色々と緩みそうだった。


「はぁ、はぁっ。貴女が、いつも携帯している針の数は、三十。きっちり三十本、全部打ち払わせてもらいました。

 糸の仕掛けも、確認済み。貴方の手元に残っている武器は肉体のみ、それもこうして拘束した以上、もはや決着はつきました。大人しく投降してください」


 荒く肩で息をしながら語りかけるゼタさんに、リィルさんは俯いたまま動かなかった。


「……んふぅ」


 リィルさんが大きく一つ、息を吐いた。

 おもむろに持ち上がった顔に先ほどまでの固く冷たい表情はなくて、憑物が落ちたように穏やかな微笑みが浮かんでいた。


「本当に強くなったね。ゼタ」

「リィルさん……。ッ、はいっ!」


 娘に絵本を読み聞かせるような優しい声。

 自分の手から巣立っていく小鳥を見送るように柔らかく弧を描いた瞳に、ゼタさんも涙を浮かべながら満面の笑みを咲かせた。


 まさに感動の和解だ。


 ワタシもようやく足に力が入ようになったので二人の側に歩み寄っていこうとして、


「……でも、詰めが甘いのは変わってないかな」


「……えっ?」

「……をぅ?」


 ワタシとゼタさんの間抜けな声が重なった。


「ッ!? まずッ!」


 何かに気づいたゼタさんが身をひるがえそうとしたけど……遅かった。


「くっ、わぁああんむぐッ!?」


 リィルさんは諦めずもがこうとしたけど無駄だった。

 どこからともなく飛んできた糸が巻きついて、逆バンジーよろしくゼタさんの身体を宙に跳ね上げた。


 上げて落とすとか……シリアスさんは天丼分かってる系のシリアスさんですか。

 自分、ちょっと泣きたくなってきちゃいましたよ……。


 涙という名の雫を目と股から零しながら、空中に絡めとられたゼタさんを見上げた。


 宙吊りにしたうえに、ご丁寧に両腕を後ろ手に縛り上げて猿轡まで噛ませる徹底ぶり。

 しかも足と腕の糸を繋げてエビ反りにして、身体を縛る糸が色々と危ういところに扇情的に食い込んでる。


 糸じゃなくて紐としての使い方ですよね、これって。


 自分の数分後の未来を暗喩しているようなゼタさんの姿に、全身から気力とか涙とか、その他水分とか、色々と漏れて出ていくのを止められなかった。


「昔持ち歩いてた針の数と今持ち歩いてる針の数を同数だと思うのは早計だし、罠が自分の周りにしかないと思い込むのは悪手だよ。

 まぁ、これはリィルちゃんをわざと逃がした後にもう一回捕まえるためのだったんだけどね」


(ひゅー! 悪趣味ぃ!!)


 ピッケルを力技で地面ごと引き抜いたリィルさんが、身体に着いた砂埃を払いながらゆっくりと近づいてくる。

 なんだか脳内で某野菜人が歩くときみたいにギュピッギュピッした足音が聞こえてきて、どんなに心の中でお茶らけてみても精神の摩耗が止まりそうになかった。


「さて……」


 目の前にリィルさんが立ちはだかって、ディープブルーの瞳に見下ろされた時にはもう駄目だった。


 とりあえず尿道よ、オマエはよく頑張ったよ。


「――お待たせイディちゃん」


(いえ全然待ってないんで。ワタシのことは気にせず、存分にゼタさんと旧交を温めていただけたらと思うんですが……駄目ですかね?)


「んふふ、大丈夫。お話しは帰ってから、ね?

 ベッドに寝かしつけながら、ゆっくり聞いてあげる」


 ――あっ、駄目そうですねこれは。


 有無言わさずにワタシを抱き上げると、先ほどまで戦闘に使っていた糸を抱っこ紐のように使って縛ってきた。


 その執拗さには恐怖しか浮かんでこなかった。


 頼みの綱のゼタさんは空中に縛り上げられて身動きが取れずにいる。

 猿轡の奥からもがもがと言葉にならない叫びを漏らすことしながら、潤んだ瞳で健気なまでに謝意を伝えてきた。


(いいのです、ゼタさん。貴女は見ず知らずのワタシの為に本当に良くやってくださいました。もうどうにもならないのです。本当に残念ですが最後の手段を取らざるを得ないようです)


 ――できればこれは使いたくなった。


 仕事という現実から逃げる。


 その全世界の社会人の夢を背負って異世界に来たワタシにとって、それは自分から悪魔の抱擁を受けに行くようなものだから……。


 しかし、しかしだ。それを唱えたら最後、ワタシの目の前に惨たらしい現実が立ち塞がってくるとしても……ワタシにも守るべきものがあるからッ!


 ――やっぱり赤ちゃんプレイはあかんやろ。


 それと比べれば仕事がどうとか言っている場合じゃない、己の人間性の危機なんだ。


 逃げるしかない、幸いにも両腕は動かすことができる。


 ――今こそ、両手を空に掲げて力ある言葉を唱える時!


「アイムホーム!」

『 ― 発音が稚拙です。やり直してください ― 』


(知・る・かぁッ! ワタシは日本生まれ日本育ちの日本人だぁ! というか、今の声は神だろ! そうだろッ!? 聞き間違いなんて許さねぇからな!)


「そんなに慌てなくても、すぐに二人の愛の巣スイートホームに連れてってあげるよ」


 ああぁ、脳内メッセージにツッコミを入れてる場合じゃない。


 元々なきに等しいとはいえ、このままではわずかに残っている人間としての尊厳まで失うことになってしまう!


 落ち着けぇ、おち乳つけワタシ。


 落ち着け、落ち着けば、落ち着くとき、おちぬるぽ。ガッ!


 いやだから落ち着くんだ。

 落ち着いて――思い出すんだ。


 中学校の外国人教師、キャシー先生の発音を――!






「I’m Home!」






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