02 来たぞ異世界!


 立ち上がりながら拳を握りしめて、力の限り叫んだ。


「……ヒモ?」

「はいッ!」


 そう、ヒモ。それは世界の真理。


 ――HI☆MO!


 なんて甘美な響きだろうか。


 そうとも、俺は危険も戦闘も労働も御免だ。

 こちとら地球でも有数の平和ボケ、もとい安全な国家である日本で生まれ育った文系中堅大学卒の中小企業勤めなのだ。


 国とか領地を運営できるような能力もなければ、その世界にない発明を生みだす知識もない。

 ましてや戦闘なんて……子供の喧嘩ぐらいならまだしも殺し殺されとか論外だ。


 最近流行りの異世界転生もののラノベで、よく転生特典をもらって自分で死地に飛び込んでいく輩がいるが、あいつらも絶対にサイコパスの類だね。


「ヒモかぁ。ヒモってあれだよね? 女性に養ってもらう男を指す」

「はい! そのヒモです。俺は自分で何をすることもなく楽して生きたいんです!」


 ……自分で言ってて自分のクズさに打ちのめされそう。

 いや挫けるな、俺。ここで妥協してしまったら、こっちの世界と変わらず仕事に追い回されることになってしまうんだ。


 負けるな、自由むしょくを勝ち取るんだッ!


「なるほどね~。そっかそっか、ヒモかぁ……」

「い、いかがでしょう?」


 顎に手を当てて「ふむふむ」頷いてる神様をジッと見つめながら、ゴクッと大きな音を立てて唾を飲み込んだ。


 俺の緊張がうつったみたいに、ピンと張り詰める部屋の空気に息苦しさを感じ始めたとき、神様からクツクツと何かに耐えているような引きつった笑いが漏れてきた。


「なるほどなぁ。それが君の願いなんだね……。

 ふふふ、いいよ、いいとも。自分で何をすることもなく、他人に依存しながら異世界の絶景を堪能したい、と。生活やお金、健康の心配をすべて他人に押しつけて、異世界の料理に舌鼓を打ちたい、と。他人のお金で心置きなく心行くまで、快楽に五臓六腑まで浸りきりたい、と。

 いいじゃないかッ!」

「あっ、はい。全くもってその通りなんですけど、その辺で止めていただけます? 改めて事細かに説明されると自分の浅ましさに身も心も削られる思いがするんで」


「よろしいとも、君がこっちの世界で何に気兼ねすることもなく過ごせるよう万全を期そうじゃないかッ!

 君はただ、美しい絶景に見たこともない料理に心奪われていればでいい。なぁに、僕は神様だ。――安心してくれていいよ」


 ――俺、知ってる。これ、安心できないやつだわ。


 盛大にボルテージを上げて一人で昂っていく神様を見ながら、話を聞いてくれない上司と対面している気分になった。

 やる気ばかり大きくって、わざわざ仕事を作ってきてくださるような真面目なお方ってのは本当に手に負えない。


 ……これは早まったかぁ。


「はい。じゃあ、親指だして」

「……へっ?」


 ――ポンッ!


 自分の浅はかさに打ちのめされていると、いつのまにか神様が手にしていた書類に俺の右手親指が乗っていた。


「いやちょ、待ってください! まだ契約内容の確認もしてなってなんぞこれぇ!?」


 慌てて契約書を取り上げ、中身を確認しようとして、いつの間にか頭上に開いていた真っ白な穴に吸い込まれていった。


「ヨシ! 契約完了だね。それじゃあ、異世界、行ってみようか!


 ――ようこそッ! 『レセスディア』へ!」



      §      §      §



 初めに感じたのは湿った土の匂いと、頬を撫でるさわさわしたくすぐったさだった。


「ぅ、ん」


 誰だよぉ……。

 寝てる時に頬をくすぐられるなんていう素敵シチュエーションをやってくれる彼女を持った覚えはないぞ……涙が出そうなのは寝起きだからだな、うん。


 何度か身をよじったところで、布団にしては野性味が溢れる寝心地に気づいて目を開けた。霞む目を擦りながら上半身を起こすと、爽やかな風が一塊になって吹き抜けていった。


 都会ではあり得ない清々しさを抱えた空気に、ぶるっと小さく身震いをしてから辺りを見回してみる。

 座った姿勢のまま首を巡らせてみると、そこは背の高い草が青々と伸びる一面が波打つような草原だった。


「なんで部屋の中に草が生えてんだよ?

 いやマジで笑える……草生えるわ。……フッ」


 我ながら、凄いくだらないこと言ったな。


 自己嫌悪に沈みそうになる頭をなんとか持ち上げて、視線を上に向けた。


「おっ?」


 何よりもまず樹が見えた。


「おぉおおお!!!」


 小高い丘の向こう、長く伸びる草原の彼方、目に飛び込んできたのは天を貫く巨大すぎる大樹だった。


「おっおっおっおっ、ぉおおお!」


 興奮のあまり自分でも意味の分からない声を上げていた。腹の底から湧き上がってくる熱に急かされて、転がるように走りだす。

 脚で草むらをかき分け腕で風を切りながら、自分でも驚くような速度で一気に丘を駆け上がった。


「マジか……マジでファンタジーかッ! すっげぇええ!!」


 ――夢だけど夢じゃなかった……今なら分かるぞ、その心!


 峰が長く続く山々の麓。くり抜かれたように広がっている盆地に、その大樹は起立していた。


 雲を突き抜けどこまでも伸び上がっているその頂は、どんなに体を反らして首を伸ばしても、ちらりと覗うこともできなかった。


 世界を覆い尽くすように広がった樹冠は山頂にまで影を落とし、風に揺れるザワザワという葉音がここまで聞こえてきそうだ。


「おお! しかもなんだあの街!?」


 全体を確認しようとして視線を下に向けると、巨樹を中心に円状に広がる街が見えた。

 樹の幹にまで張りつくみたいに家が作られている。


 大樹の根元からは波紋状に段々で街並みが広がっていて、平地にも木造の家が軒を連ねる。一番外側に大きな石造りの防壁がそびえていた。


 街の外れには大きな河が流れていて、大小たくさんの木造船とレンガ造りの大きな倉庫が並び、賑やかな港の様子がうかがえた。


「そして、見るからに人間じゃない人たち!」


 家と家の間には石畳の道が整然と走り、その上に多種多様な人影がひしめいている。


 腕の代わりに大きな翼を持つ少女がベランダから屋根へ、さらには空へと自由に飛び回り、下半身が馬の青年は背中に乗せた巻角の女性に微笑みかけている。


「くうぅ……ッ! 異世界キタァーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!」


 体の内側から滾ってくる万感を、腹の底からの声に乗せて叫び上げた。


(マジでありがとう神様!)


 現れた時から契約に至るまで、碌に人の話は聞かないわ、どこまでも不遜だわ、見た目めっちゃ小学生だわで、正直な話、何があってもおかしくないどころか人生終了まで覚悟してた。


 しかし蓋を開けてみれば、まさに異世界でファンタジーな光景が確かに広がっている。


(古池谷のポテチを食べられたのも許します!)


「みなぎってきたぁ!」


 興奮に全身を震わせて、握りしめた両手を天に突き上げた。


「……ん?」


 その時になってようやく、何やら日に焼けたような淡く茶の混じった紙を握りしめているのに気がついた。


「なんぞこれ…………は?


 はあ゛ぁあああぁあーーーーーーーーーーーーーーッ!?」




      ☆      ☆      ☆




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