花火大会に恋をした
Natsu
二〇二〇年八月一日早朝の独白
突然だが、僕は花火大会が好きだ。
単なる花火でも夏祭りでもない。花火大会が好きだ。
夜空を華やかに彩る花火はもちろん、浴衣や甚平に身を包む人々、花火に負けんとばかりに表情を輝かせる彼ら彼女らの表情。美味しそうな香りを漂わせる屋台、すべてが好きだ。愛している。
と、ここまで語っておいて言うのも気が引けるが、僕が初めて花火大会というものに心を奪われたのは三年前、高校一年の夏だ。それ以前も花火大会に行ったことは幾度かあったが、特に印象深い思い出はない。
高一の夏、友人たちを誘って大阪の天神祭に行った。誰かに連れられるのではなく、自発的に花火大会に行こうと思ったのはそれが初めてだった。
当初は花火大会自体には興味がなかった。そんな僕が何故花火大会に行こうと思ったかというと、『ただ青春っぽいことをしたい』という幼稚で、馬鹿馬鹿しく、そしていかにも高校生らしい動機からだった。一回くらいは行っておこう、くらいの気持ちだった。
花火や花火大会を楽しむのではなく、花火大会に行く自分自身に酔うことしか考えていなかった。
『自分』のこと以外は眼中にさえなかった。
しかし、のちに僕は花火大会を侮っていたのだということを身をもって実感する。
会場の最寄り駅で友人たちを待っている間、まるでテーマパークに向かう小学生のようにワクワクした。暑さや蚊にさされることなんて全く気にならなかった。
屋台に並ぶ豊富な種類の食べ物。もちろん屋台の食べ物なんて大して凝ったものはないし、そのくせ値段は相場よりも高めである。
けれど、そこで食べるかき氷はそこ以外で食べるかき氷よりも美味しかった。どんな高級なかき氷よりも美味しかった。だれにでも作れそうなかき氷が、そのときはまるで三ツ星レストランの料理のようにも感じられた。
花火がよく見える場所に行くためには人の波にのまれないといけない。
僕は基本的に人ごみに混じったり列に並ぶことが嫌いだ。有名なタピオカ専門店の前に行列を作って並ぶ人間の気持ちだって理解できないし、ライブコンサートでも並ぶことさえなければ最高なのにな、と思うほどだ。
夜間とはいえ夏に大勢の人間が密集する場所に自ら混ざりに行くだなんてことは普段の僕ならば絶対にしないし、花火大会に行くまで「綺麗な花火が見たいのならば、他人が撮ったものを見るほうがいい」とさえ思っていた。
しかし、その夏の僕の心情はそういったものではなかった。全くの正反対であったとも言える。
どんなに蒸し暑くても、どんなに騒がしくとも、それらを苦痛に思うことはなかった。楽しんでさえいた。普段なら苛立つほどにゆっくりと進む人の流れさえ、楽しかった。
それはきっと、一緒に語り合ってくれる友人がいたからこそだろう。周囲の雰囲気に当てられていつもよりテンションが高くなってて後から死にたくなったりもする。
人の波から解放され、落ち着いて花火が見れる場所へ移動した。
できるだけ人が少ないところに移動したのだが、人が少ないということは言い換えれば花火を見るうえであまりいい場所ではないということである。視界を遮るように木が立っていたため、じっくりと綺麗な花火を見ることは叶わなかった。
それでも、不満は全くなかった。
どんなに見えづらくても僕はその風景を美しいと思えたし、今でもその風景を鮮明に思い出すことだってできる。
プロのカメラマンが撮った花火は誰の目にも綺麗に映るだろうが、僕の脳裏に焼き付いた花火のほうが僕にとってはずっと綺麗で鮮やかだ。断言できる。
帰りの電車で、友人たちとポツポツと言葉を交わしながら余韻に浸っていた。
そのときの僕は一抹の淋しさと、言葉で表現できないほどの充実感に満ちていた。
そして気づいた。自分は『花火大会』というものに魅せられてしまったのだと。
どうしようもなく来年の花火大会が待ち遠しく感じた。
当初の『花火大会に行く自分自身に酔う』という低俗な目的は僕の頭から完全に消え去っていた。
その日から、『花火大会』というものに対する恋慕の情が日に日に増していった。
自分も健全な男子なので人に恋をしたことはあったが、花火大会への想いに比べたらあのときの感情は恋というのもおこがましく感じる。それほど僕は花火大会というものに魅せられた。
翌年、高二の夏。僕は再び同じ花火大会に行った。
まるで遠距離恋愛をしている恋人に会いに行くような気持ちだった。
さすがに二回目だとあまり新鮮さは感じないかもしれない、と思った。
だけど、嬉しいことにそれは杞憂だった。
一年前と同様、僕は花火大会のすべてを楽しむことができた。
今でも、屋台で売っていたハットグの味を難なく思い出すことができる。
新大久保でハットグを食べたこともあったが、やはり花火大会で食べるハットグのほうが美味しかった。その理由は今でもよく分からない。ひょっとして味覚音痴なのだろうか。
そして、高校三年生になった。
花火大会に行きたいという気持ちは減るどころか、高二の時よりも大きくなっていた。
けれど、僕は高三の夏に花火大会に行くことはなかった。
受験勉強に集中したいという気持ちはもちろんあった。しかしそれ以上に『花火大会に行って、受験に失敗して、そのせいで花火大会を嫌いになってしまうことは避けたい』という気持ちが大きかった。
早く大学生になって再び花火大会に行くんだという気持ちを糧に、僕は毎日シャーペンを握った。将来とかキャンパスライフとかは全く持って二の次だった。僕の頭の中には花火大会のこと以外には何もなかった。
そして今年の春、第一志望ではなかったものの無事に大学に合格することができた。
これで再び花火大会に行ける。
はずだった。
一月下旬から世界各地に広がっていった新型コロナウイルスにの影響により、世界中があらゆる面で深刻なダメージを負った。
そして、人々は外出の自粛を余儀なくされた。大勢の人が密集する行事も行うわけにはいかない。
当然、花火大会もだ。
花火大会には相当な準備期間が必要である。花火職人だって夏の花火大会に向けた準備は遅くとも春には始めなければならないし、大会の運営に関する準備はもっと早くスタートせねばならない。花火大会が終わった直後から翌年にむけて準備を始めるところだって少なくない。
花火大会とは、多くの人々の努力の結晶なのだ。
しかし、新型コロナウイルスによる経済的打撃や、ウイルス感染予防の必要性といった事情が重なり、花火大会に向けて準備をすることが困難になってしまった。
そして、多くの花火大会が中止あるいは延期を余儀なくされた。
今年の夏に大きな花火大会に行くことは叶わないものとなった。
僕は絶望した。
この日のために苦しみながらも必死に勉強をしていたのに、報われなかったのだから。
もう一年待たなければならない。
そう考えただけで鬱になりそうだった。
今回のコロナウイルスの件で最もつらかったのは、大学の入学式がなくなったことでも、大学に行けなくなったことでも、外出自粛を余儀なくされたことでもない。
最もつらいのは花火大会がなくなってしまったことだ。
絶望に打ちひしがれているうちに、もう八月になってしまった。
昨晩、去年の有名な花火大会の動画を見たのだが非常に後悔している。
始まって数秒で胸が痛くなり、呼吸が乱れ、視界が滲んだ。
恋しかった。ただ、ただ『花火大会』が恋しく感じた。
どうしようもない淋しさと胸を焦がす想いが僕を襲った。
たった十九年しか生きていないが、いままでの人生の中で最もつらいといっても過言ではない。
僕が早朝の四時にこのエッセイを書いているのは、その感情が消えないうちに、なんらかの形で残しておこうと思ったからだ。
来年の夏がどうなっているかは分からない。
来年も花火大会が行われない可能性は否定できない。
それでも、僕には信じること以外になにもできない。
いつまでも落ち込んでいたところで状況が好転するわけでもない。
きっと、来年の夏こそは花火大会を楽しむことができるだろう。
きっと、来年の僕はこのくだらない感情の吐き溜めのエッセイを読んで、今年の僕を笑うのだろう。
そう信じて、今、自分が為すべきことをする以外にはなにもできない。
こんな夏はもう過ごしたくない。
来年の僕よ、どうか今年の僕を、今の僕を笑ってくれ。
さあ、まもなく夜が明ける。
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