葉月の夜雨
moes
葉月の夜雨
「もう夏休みだのう」
麦茶を飲み干して、氷だけが残ったグラスをからからと揺すりながらなぎは気だるげに呟く。
「なに? 寝ぼけてるの?」
実は寝ぼけじゃなく本格的にボケが来てたんだったらどうしよう。見た目こそ十代の少年だが実際は何歳なのか……たぶんかなり年嵩だろう。
なぎは近所の神社の主、いわゆる神様だ。
まぁ、神様がいわゆる認知症になるかどうかは知らないけれど。
「なんぞ、失礼なことを考えているな」
「まさか」
グラスに麦茶を注ぎ足して笑ってごまかす。
「和葉の夏休みがまだ先なことは分かっておる。子どもたちがもう夏休みに入ったということだ」
「そっかー。もうそんな時季かぁ。いいなぁ、長い夏休み」
社会人になると夢のまた夢だよね、ひと月以上の連続したお休み。まぁ、宿題は山盛りだし、今の子たちは塾とかもあって忙しいだろうけれど。
「子どもが元気なのは良いことなのだが、なぁ……今年からうちの境内でラジオ体操をするようになったのだよ」
「今の子でもまだラジオ体操ってやるんだねぇ」
朝、早起きして行ったなぁ。なつかしい。
「ラジオ体操が終わった後も、何人かが虫捕りに精を出しておってな」
「いいね。ただしく夏休み満喫してるね」
「確かに微笑ましいんだがな、少々賑やかすぎて身の置き所に困る」
なぎは眉を下げる。
「で、うちに避難しに来たんだ?」
なぜか私を気に入って、友人関係のようにつきあっているなぎは、今までもたびたびうちに遊びには来ていたけれど、休日の朝七時から来るなどということは初めてだ。
「和葉がぐうたらと朝寝をしていなくて良かったよ」
「人聞きの悪い」
まぁ、なぎが来る少し前に暑さに負けて起きたところだったから、エアコン入れっぱなしだったらたぶんまだ寝ていただろう。
「で、三連休、こんなに早く起き出してどこかに出かけるのか?」
「予定はないよ。久しぶりに天気が良さそうだし洗濯祭りかな」
梅雨明けはしたのか、今日は一日気持ち良く晴れそうだ。シーツ洗ったり、布団干ししたい。
「なぎ、可哀そうな目で見ないでくれないかな?」
憐れむような視線を向けるなぎに抗議する。
「とんでもない。若い娘が休日に予定の一つもないのかとか思ってないし、わしは洗濯物がはためいているのを見るのは好きだぞ」
思ってるし、無理矢理なフォローだな。良いけど。
「洗濯して掃除したら、ピザとって昼からビールにしようか」
「それは名案じゃな」
「で、和葉は夏休みはどうするんだ?」
「んー? 特に決めてないけど?」
口の中に残っていたピザを飲み込んでから返事をする。
「今年は帰らぬのか?」
ビールをこくりと飲んで、なにげなさそうに、でも声は思いやるような優しいものだ。
「うん。去年は初盆だったし、ね。さすがに帰ったけど、今年はとりあえず良いかな」
一年ほど前、双子の妹が亡くなった。それで行き詰っていた私になぎは寄り添ってくれた。
おかげで随分気持ちは楽になったと思っていたけれど、一周忌に実家に帰った時、どうしようもない居心地の悪さがあった。
性格は似ていなかったけれど、見た目はそっくりな妹だった。両親は私に妹の面影を重ねていた。
仕方のないことだと、頭では分かっていた。
「和葉はわしに頼ってくれぬからのう」
その時のことはなぎには言っていなかった。
きっとなぎは黙って聞いてくれたとは思うけれど、私がそれを言葉にできるほど、気持ちが追い付いていなかった。
何事もなかった風に、地元のお菓子をお土産に渡して、どうでもいい話をしただけだった。
「頼ってるよ。なぎがいるから、デリバリーのピザも頼めたしね」
なぎはたぶん無理に聞き出そうとは思っていないのだろう。
あえて冗談めかしてくれた口調に乗って、殊更かるく答える。
別に嘘じゃない。
ピザ、たまに食べたくなるけど一人で頼むには量が多いんだよね。
「役に立ってるなら幸いと思っておくべきか。微妙に釈然とせぬが」
苦笑いをしながらピザをもう一切れ手に取る。
「重要だよ。好きな人と食べるごはんは美味しいでしょ」
「確かにな。で、夏休みに予定がないのなら、祭りに行かぬか?」
「お祭り? なぎの神社ってお祭りあるんだ?」
普段ほとんど参拝者のない小さな神社だ。常駐の神主さんもいない。そんな神社でもお祭りをやるとは思わなかった。
「あぁ、違う。うちではない」
「じゃ余所の? っていうか、それって大丈夫なの? 縄張りみたいなのはないの?」
どこの神社にもなぎのような神様がいるのかどうかは知らないけれど、ある程度テリトリーみたいなものがあるのではないんだろうか。
「……縄張りって、和葉、あのな」
呆れたような視線。えぇと、なんかごめん。
「とりあえず、そういう心配はいらぬよ。神社は関係ないのではないかな。町の納涼祭りだよ。屋台がいっぱい出る」
そういえば、駅にポスターが貼ってあったかも。
「うん。行こう」
「何で、浴衣じゃないんじゃ」
紺色の浴衣を着たなぎが玄関先で思い切り眉をひそめる。
「持ってないし」
実家には学生の頃に着たものが残っているかもしれないけれど。
「お祭りと言ったら浴衣じゃろう。わしだけ気合を入れてきて、バカみたいじゃないか」
「似合うね」
「わしに甲斐性があれば、今から浴衣を買いに行くぞと言えるのだがのぅ。無い袖は振れぬ」
浴衣の袂をわさわさ振ってみせる。
「買ってやるって言われても困るけどね。行こうか」
外は薄暗くなってきているけれど、アスファルトからの熱気でむっとする暑さだ。じんわりと汗がにじむ。
「まだ暑いね」
「じゃ、まずはかき氷かの」
駅向こうの祭り会場までは十分程度は歩かないといけないのに、既に食べるものを考えているのか。
「良いねぇ」
まぁ、でも賛成だ。
「うわ、賑わってるね」
小さな町のお祭りだろうと高をくくっていたけれど、駅周辺は車通行を制限して様々な屋台が並んでいる。そしてどこから集まって来たのかと思うくらいの人の波。
「和葉、手」
「……つなぐの?」
「これだけ人がおったら、迷子になるじゃろ」
確かに、これだけの人混みだと気を抜いたら、すぐに離れ離れになりそうだ。
そしてお互いにそれほど背も高くないから、埋没して見つけ出すのは困難だろう。
迷子の呼び出しをされるのもごめんだ。
差し出されたなぎの手に自分の手を重ねる。
「かき氷、探しに行こう」
「わしは青いのが良いな」
あれ、舌が真っ青になるのは黙っておこう。そしてあとで鏡を見せてあげよう。
「牛串とかも良いねぇ。なぎも他に食べたいもの考えておきなよー」
昔より屋台の種類も様々で、いろいろ気になるものが盛りだくさんだ。
「金魚すくい」
「……金魚は食べ物じゃない」
「知っておるわ。ちょっと掬ってみたいと思っただけじゃ」
「生き物はダメ。連れて帰っても面倒みられないから。スーパーボール掬いくらいなら良いよ」
「仕方ないか。お、あそこの氷屋さんはどうじゃ?」
なぎはぐいぐいと手を引っ張る。
「そんな、急がなくても」
楽しんでいるなぎが、いつもより子供っぽくて思わず笑みがこぼれた。
「疲れたー」
かき氷を食べた後、牛串や、チョコバナナを食べ歩き、途中でボール掬いをなぎがやって、たこ焼きとやきそばを買って、休憩しようと公園まで歩いてきた。
「盆踊りかぁ」
住宅街にある、芝生の広がる公園。
鳴り響く音楽に合わせて、やぐらの上とその周囲で輪になって踊っている。踊りがぎこちない人も多いけれど、楽しそうだ。
「和葉も踊るか?」
「私は良いよ。それより、食べよ」
数少ないベンチは満席なので、公園の生垣の縁石に二人並んで座り、たこ焼きとやきそばを広げる。
「ビールが欲しいのぅ」
たこ焼きをかじって、なぎがぼやく。
「私も我慢するから、我慢して」
同感だけれども、見た目高校生のなぎに外で飲酒させるわけにもいかない。
「仕方ない」
諦めた様子でペットボトルのお茶を飲む。
「家に帰ったら飲めばいいよ。焼きそばも食べる?」
「もらおう」
三分の一ほど食べたやきそばを渡すと、なぎはたこ焼きと交換してくれる。
うん。たこ焼きもおいしい。ちょっとタコが小さいけど。
「……昔、子供の頃、家族で行ったな」
ぼんやりと盆踊りの様子を眺めていて思い出した。
「盆踊りか?」
「うん。ちょうど、今日みたいに屋台も出てて、妹とおそろいで浴衣を着せてもらって」
買ってもらったお面をかぶって、二人で踊りの輪の中に入った。
たぶん、あの時が最後だった。あんなふうに二人ではしゃげたのは。家族そろって遊びに出かけたのも。
「忘れてたなぁ」
小さいころからずっと病気がちだと思っていたけれど、あの頃はまだ元気だった。二人でなんでも同じことをしていた。
「よし。やっぱり踊ろう」
食べかけのやきそばとたこ焼きのパックを重ねておき、なぎは立ち上がる。
「え。良いよ。踊り方わかんないし」
子供の頃はでたらめな踊りでも混ざったけれど、大人になった今はさすがにそんな度胸はない。
「誰も見ておらぬし、適当に合わせておけば良いよ」
なぎにひっぱられて、仕方なく立ち上がり輪の中に入る。
「なぁ、和葉。後ろめたく思う必要はないと思うぞ」
背後から届くひそやかな声。
「……思ってないよ」
今は。たぶん。もう、いないのだから。
「わしには会わせてやる力もないが、盆踊りは死者の霊を慰めためとも、死者が混ざってるとも聞くからな。もしかしたら、伝わるかもしれないし、この輪の中で楽しんでるかもしれぬよ。一緒に」
この場所に縁もゆかりもないのに、いるかな。それに、仏教系の行事じゃないの? 盆踊りって。神様のなぎが混じっても平気なの?
いろいろおかしくて、でもやさしい言葉がうれしくて、視界がにじんだ。
「そうだと、良いな」
【終】
葉月の夜雨 moes @moes
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