君の名は希望
燈 歩
1.
汗のにおいと雨のにおいが鼻にたまっている。足音を立ててやってくる夏の前フリ。ほかのことは考えないように、乱れた制服を整えて息を吐いた。
「じゃ」
短く言われ、それで部屋をあとにした。
夏服になって、軽くなって、時間が進んでいたらやることをやって、そうしてまたきっとすぐ衣替えになる。
じわりと肌をなでる風に、さっきまで降っていた雨がまだ残っていて気持ちが悪かった。
傾いたのに沈み切らない太陽が、雲の切れ間からこっちを見ていた。
「ハーナー? 終わった? まだ学校にいるから暇なら来てよ」
サヤカからの電話を受け、ずっしりと重たい腰を支えながら学校へ戻ることにした。上澄みの上澄みみたいなところで、楽しいことと高校生っぽいことだけをするための友達。
貫きたい自分なんてないし、だったら面白おかしくこの身を任せていた方がいい。きっと高校を卒業するころには、就職や進学でそれなりに大人になって落ち着いていくものだから。
グラウンド横の昇降口まで来て、日が差してきた。湿った空気を乾かすほどの力はなくて、ただじめじめと湿度を上げていくだけの光。スポットライトみたいに照らされた土の上を、ボールが転がってくる。
水たまりを通って来たのか、ところどころ濡れて泥がついているのに光っている。
私のちょっと手前で回転を止めたサッカーボール。追いかけて、走ってくる姿があった。その姿がなんだか現実離れして見えて、突っ立って眺めていると、彼はボールに追いつく前に走るのをやめた。
私と、ボールと、その人。おんなじくらいの間隔で向かい合っている。これが世界の大切なバランスみたいに、動こうとしない。
汗か雨かで濡れた髪が、額や頬に張り付いている。まっすぐに私を見ているその目からは、他の同級生から投げられるそれを感じなかった。
風が私の後ろから吹いていく。私にしぶとく残るセックスのにおいが届いてしまうんじゃないかと、初めて焦った。
そっと一歩を踏み出して、あちらへボールを蹴ってみた。頼りなくよろよろと転がるボールは、それでも彼の足元までは辿り着けたことにホッとする。
彼は何も言わず、ボールを操るとグラウンドに戻っていった。
「ハーナー? 帰るよー? どこ?」
サヤカがスマホの向こう側でのんきにしゃべっている。マイペースと自己中の間を上手く行ったり来たりする話し方にイラついた。
「サヤカが学校来てって言ったんじゃん」
「あら~? 怒ってるの? 今日のはつまらなかったのね」
キャハハと笑う声が耳に痛い。彼氏彼女になったら、一緒に帰ってデートをして時々やることやるのがふつうだから、それだけなのに。愛だの恋だの、惚れたの腫れたの適当なことばっかり言って美化している。
「階段上るのだるいから、下にいるね」
それだけ言って電話を切った。
校舎の壁に寄りかかりながら、グラウンドを眺める。さっきの人は同級生だろうか。それとも先輩、いや後輩かもしれない。
誰でもよかったけれど、誰でもいいわけじゃなかった。
切れ長の目が私のことを正面から見ていた、あの眼差しを噛みしめる。感じたことのない感覚に酔いそうになる。胸元で淡い風に揺れる自分の髪を見つめながら、枝毛を探すふりを必死にしていた。
水たまりが夕方の光を反射して、視界の隅でキラキラ光る。チラつくその白い色が、私の影をもっと黒く見せた。
「何してんの?」
いつの間にか降りて来ていたサヤカとアカネに話しかけられた。
「なーに? つまんなかったからふてくされてんの?」
ニヤニヤと笑いながら私の顔を覗き込んでくる。
「そんなんじゃないって。もう早く帰ろ」
「ハナが怒ってるぅ~」
ケラケラと笑いながら、2人は後ろを歩いていた。
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