苦いデニッシュ

田中諒人

第1話 スタートライン

「俺たち、別れよう。」


夜の街にきらびやかなイルミネーションが光りだす時期になった。恋人たちにとって最も大きなイベントであろう’’クリスマス’’が控えている時期である。ところどころでサンタクロースの格好をした洋菓子屋の店員や、どこからともなく定番の音楽が聞こえてきているさまもこの時期を象徴するものであろう。まさに世の中はお祭り状態であるが、そんなものとは程遠い顔をして喫茶店に居座る女の姿があった。

彼女の名前は西藤美咲。都内の食品会社に勤めるうら若きOLである。普段は持ち前の愛想のよさとコミュニケーションスキルを活かして入社2年目とは思えないほどの営業成績を残しているというから驚きだ。それもあってか上司や同僚からの信頼も厚い。しかし、何かがうまくいけば何かは犠牲になってしまう。人生とはそういうものである.....。


あの言葉を聞いてからいったいどれほどの時間がたったのだろうか。外はすっかり暗くなり、街は昼間とは違った盛り上がりを見せている。かなり長い時間この店にいたことは確かだ。時間が過ぎたところで何も変わらない。それは美咲自身が一番よくわかっていることだ。不意に店内の時計を見ると時刻はもう21時を回っていた。

「お腹…減ったな」

何があってもお腹だけはすいてしまうのが人間というものだ。美咲がメニュー表に目を通していると、どこからか甘い香りが漂ってきた。人目もはばからずあたりをきょろきょろと見まわしていると、大きなデニッシュが目に留まった。そんなに甘いものが食べたい気分ではなかったが、美咲はなぜかそれを注文してしまっていた。

考えても無駄だとわかっているのに、考えるのをやめられない。さっき美咲のことを振った彼氏は大学の同級生の佐々木敦人という人物だ。茶髪でピアスを開けているような、いわゆる’’文系大学生’’とは異なる超体育会系であった。身長も高く、それでいて顔立ちもよい。そして何よりも優しい、美咲にとって自慢の彼氏だった。「この人となら一生いれる」と美咲は本気でそう思っていた。彼から別れ話を切り出されたとき、理由を聞けなかった。知りたくなかったというのが本音かもしれない。今から自分の大好きな人から自分の何かを否定されるかもしれない。それがただただ怖かったのだ。今思うと聞いておけばよかったと思う。そしたら今の自分は少し違ったかもしれない。こんなことを永遠と考えていた。

そんなことをしている間に、注文したデニッシュがやってきた。上に粉糖やクリームがのっていて、後から、自分でシロップをかけて食べるというシンプルなものだ。しかしそれを食べた感想は美咲の予想とは異なるものだった。

え、なんで苦いの?こんなに甘いものばっか使ってるのに、なんで?なんで!?

美咲はテンパっていた。周囲の人が美咲に怪訝な目を向けてしまうくらいにはテンパっていた。美咲は急に恥ずかしくなり無我夢中でデニッシュを食べた。冷えたコーヒーを流し込み、足早にレジへと向かった。


「あたし何してんだろ。」

普段は何とも思わないイルミネーションが、目に痛いほどまぶしく感じる。

また明日から仕事か…

冬の寒さが美咲をより一層心細くさせた。今までこんなに寂しいクリスマスシーズンを迎えたことがあっただろうか。物心ついた時からクリスマスは美咲にとってとても大切なイベントだった。家族と美味しいご飯を食べてプレゼントをもらう。もう何年も前の出来事であるが、鮮明に思い出すことができる。そのくらい美咲の中でクリスマスは大きなイベントなのである。

いつの間にか家に着いていた。美咲はすぐにベッドに倒れこんだ。今日は一日中外にいたが、これといって大したことはしていない。それなのに美咲の体はひどく疲れていた。

「もう今日は早く寝よう。」

力を振り絞りベッドから起き上がると、枕が濡れていることに気づいた。その瞬間、美咲の中で何かがはずれた。自分でも恥ずかしいくらいの声が出た。そしてそのまま眠りについた。


いつも通りの時間に起きて、いつも通りの職場、いつも通りの仕事。当たり前だが、周りの環境は何も変わっていない。それなのにいつもと違うように見えるのは昨日の出来事が影響しているに違いない。それのせいかはわからないが、美咲は少し前向きになることができた。

「まだ私は24歳。人生なんてまだまだこれからっ!絶対に敦人を見返してやるのよっ!」

今後が少し楽しみになった西藤美咲24歳。彼女はまだ人生のスタートラインに立ったばかりなのだ。




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苦いデニッシュ 田中諒人 @TanaAki_1613

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