私の人生は、19歳で幕が閉じる

狐火

todie

 探す本もなくとある本屋を、ただ雰囲気を感じるために彷徨っていた。本に囲まれているのは好きだ。私は「小説を書くなら、まずこれを読め。」そんなタイトルに興味をそそられて本の表紙を人差し指でなぞった。若干躊躇もあったがその本を手に取り開いた。小説は誰にでも書ける! 最後まで書き続けよう! そんな文言に興醒めして、私はその本を棚にしまった。


 はぁとため息をついて私はその場から離れた。歩いているうちに、本屋であるにも関わらず鉱石が売られているのを見つけた。昔から綺麗なものが好きな私は胸を躍らせて鉱石たちに駆け寄った。アメシスト、天青石、水晶、琥珀。どれも見覚えのある鉱石ばかりだった。しかしその鉱石たちは私が知っている輝きを持ってはいない。高貴な色であるアメシストは私が一番好きな鉄鉱石だ。手に取って天井の光でかざしてみても、天井の光が眩しすぎてアメシストが霞んで見えた。


 それは何も鉄鉱石だけの話ではない。最近の私は何もかもが濁って見える。昔は綺麗な物を見ればオレンジ色にピンク色の影が付いたそれはそれは楽しい感情が私の体中に染み渡った。いい匂いの木材のつるつるした表面に触れて目を閉じれば、あらゆる言葉が私の脳内から溢れ、この世界中を包み込めるほどの想像力が私の中に漲っていた。しかし最近は目を閉じても真っ白で真っ暗だ。


 何をしていても無気力に苛まれ生きている快感を得ることが出来ない。鉱石たちを目の前にしても私は今、ちっとも幸せじゃなかった。主張の激しいビスマスという鉱石を手に取りやけに華美だなと感想を持った時、ビスマスの名前の隣に(人工鉱石)という表記を見つけこれ以上ない落胆と心の中の温度が下がるのを感じた。一瞬でもこの鉱石が自然にできたものだと思った自分が馬鹿らしかった。


 私はビスマスを元の場所に置いて鉱石に背を向けた。時計を見ても3分ほどしか進んでいない。昔の私なら10分でも30分でもこの鉱石たちを見続けていられた。過去の自分を恋しがるほどに自分は過去の自分から遠ざかってしまったのだと実感して、喉の奥が苦かった。もう一周、本屋を回ったが読みたい本はなく私はその本屋を抜け出して少し早いが待ち合わせの場に行った。


 私は自分を類稀なる人間だと信じていた。そう思っていなければ生きてこれなかった。常に人と違うことを求め、中学生の時に小説を書き始めた。昔は自分が小説を書いている人間であるだけで誇らしかった。しかし時が経つにつれ、この世の中は言葉より行動、行動より結果が大切なのだと知った。


 全ての人が私の努力を認めてくれるのだと思い込んでいた私は酷く驚いた。小説を書いていようが奇抜な人生を歩んでいようが、奇抜さを持たず結果を残す人間に負ける。私がどんなに自分の小説を楽しんで書いていようと小説を読んだ人間が楽しいと思わなければ、その小説は面白い小説にはなれない。作品の主人公はいつだって受け取り手だ。


 私の描く夢物語は歳を重ねて現実を知っていく中でどんどんファンタジーとなっていった。私という人間はファンタジーなのかもしれない、あるいは目を閉じても嬉しくても色を感じなくなったあの時にもう死んでいるのかもしれない。現実を知り、その現実にどんどん染まっていく自分を想うたびに希死念慮が強くなっていった。自分が現実逃避気味の無能な人間だとは幼いころから知っていた。私はいつでも脳内で嘘を作り上げて生きてきた。


 その嘘を綺麗に塗装し具現化したものが私の小説だった。嘘であると知っているからこそ、私は表現することに恐れを持ち、創る人間の姿勢を保ち続けていた。表現することは人を傷つけること。私が口から吐いた真っ黒で汚い嘘をポップでキュートな日本語で飾り付け、あたかも私は幸せを提供しているような顔をして小説を書いていると周りにひけらかしていた。けれど、私は次第に嘘が下手になりその分塗装が上手になった。


 人に好かれる笑顔、言葉、行動そのすべてを駆使して人間関係を構築してきた。しかしどんなに塗装が上手くても核となる嘘が役割を果たさない、私は小説を書くことがどんどん下手になっていった。嘘を作り生きてきた私、それすらも出来なくなった私。私はもう、生きることが限界かもしれないと最近思う。この文章を書いている今も、目を背けたい現実に体当たりしているため胸騒ぎが止まらない。体がこの文章を書くことを拒否していた。


 それでも私は小説を書かない自分なんて知らない。筆をとり、次の小説の題材に胸を馳せて情報収集のために読んだ本に苦言を呈したり、または歓喜したり。そんなふうに書く者として生きていない自分なんて、まるで自分では無いみたいだ。この知らない自分を私を拒絶し、この文章を書き終えたらもしかすると自分は、償えきれないほどの大罪を犯してしまうような気がする。その大罪を自分は恐れてはいなかった。むしろ自分は、自分を愛している人がいない世界に生きていたのならとっくにその大罪を犯していただろう。しかし私は、苦しい程に愛されていた、


 待ち合わせ場所に行くと、すでにもう待ち合わせの相手は到着していた。


「ぴよちゃん」


 この人は私のことをぴよちゃんと呼ぶ。私が赤ん坊の時、その人は私が可愛くて仕方なくひよこの様だと思ったためであった。19歳の娘をぴよちゃんと呼ぶ人は世界中を探してもそうそういないであろう。私は片手をあげて母の声に応答した。母の買い物に付き合う、そんな名目で私は母と食事をしにここに訪れたのだ。


「おなかすいたでしょう?何が食べたい?」


 家に居る私に働いてきた母がそんなことを言うのは矛盾しているような気がした。


「なんでもいいよ。」


 私は脳内で来慣れたこのショッピングモールの店のラインナップを思い出した。中華かなぁ、そう思い私はお気に入りの中華屋さんへと歩き出した。


「中華がいいな。」


「じゃああそこかな?」


 母とエスカレーターに乗りながら他愛もない話をした。内容はあまり覚えていない。今の私には他人を気遣う気力も余裕もない。ただ相槌を打って時たま声を出して、そんな簡易なコミュニケーションでも母と私の間では何か通じ合うものがあった。けれど母は私が大罪を犯したいと思っていることなんて知らない。私はこの世に居続ける理由は大半は母であった。


 高校生の時の担任の先生は卒業式の日に「親より先に死んではいけない」と言っていた。その先生はなかなか変わった先生で、でも子供を利用しようとしない稀な大人だった。母を想えば私は自分の願望を実行する気にはならない。母の泣き崩れる姿、母が絶望する姿を今文章に起こすだけで涙が浮かんでくる。母はとても単純でそれでいて愛情に満ち溢れた人だ。どんな私も受け入れてくれた。


 私が罪を犯したとき、一緒になって死のうとする人だ。私が悲しんでいる時は私を抱きしめ、白髪が生えてきても安易には美容院にはいかない。けれど私には惜しみなくお金を使う。なぜそこまで私を大切にするのか、ちっともわからない。私なんて、それほど生きる価値もないのに。涙があふれる、母のことを思えば私はどんなに苦しくとも大罪を犯すことはできない。


 食事をしてカフェに行って母といろいろなことを話した。残念ながら話の内容は覚えていない。私は自分の願望を母に漏らしてしまわないようにすることで精いっぱいだった。楽しかったね、と笑顔で言う母のその一言で私は自分が楽しい思いをしていることに気が付いた。19年間生きてきて、辛いことはほとんど母に話をしていた。


 今初めて私は自分の中に秘めなければいけない思いを抱いている。母との会話の中で、最近昔みたいに物がキラキラして見えなくなったと一言漏らした。「大人になってきているんだよ」と母は言った。大人になる、それは私にとって悲痛だった。確かに大人になるためのステップのようなものはたくさん経験した。


 アルバイトではあるがお金を稼いだり、一人で旅行に行ったり、彼氏が出来て性行為もした。人と関わることで習得してしまった似非の敬語が正しい日本語なのか分からぬまま、私はこれからどんどん大人になっていくのだろう。いつしか私は昔の感覚を忘れるどころかその存在自体をなかったことにしてしまう気がする。


 いつしか今のように苦しい思いをしていたことをあざ笑う日が来るかもしれない。これから先就職活動をして就職し、社会人として生活しながら恋愛し結婚して子供をもうける。視力が下がってぼやける文字を勘で読み解くように、そんな未来を見据えている気分になっていた。


 今までは自分の好きなこと以外はしたくないと言う性分だったが、そんな意地も捨てて金を稼げればいいやと、吸い込みが強い掃除機に吸われるごみくずのようにあてがわれた場所で仕事をするようになるかもしれない。自分のやりたいことをやると言うのは、根気も努力も必要だ。生きる気力のない私にはそんな努力、できる気がしない。


 帰りのバスはやけに混んでいた。私は運転席近くに立ち、運転手と同じくらいバスから見える視界を堪能できた。雨あがりで厚い雲が広がり、その雲の狭間からオレンジ色の夕焼けが見えた。隣に居るカップルは仲睦まじく小声で話をしていた。


――私の愛しい人の上にある雲は、一日後にしか私の頭上には届かない。


 その間にどれだけの幸せを雲は経由してくるのだろう。昔は自分の方が幸せだと胸を張って気丈でいられたのに、いつの間にか他人の幸せに触れることが辛くなった。昔の幸せな私はもう生きていない、私はもう死んだんだ。そう思うとなんだかやけに納得して心が軽くなった。


 今年で20歳になる私。若々しい20歳とは思えないほど、私は自分に失望している。私が大罪を犯すことで苦しむであろう母の存在を自分が忘れてしまう前に、早く自分が守るべきものを得なければ、私はいつの日か本当の意味の人生の幕を閉じてしまうかもしれない。守られてきた自分が今度は守る立場になった時、私は第二の人生を迎える。第一の人生の幕を閉じた今、もう一度自分の大切なものを振り返ってみるのも良いだろう。もしかするとこの文章が、私が世に出す最後の文章になるかもしれない。それでもいい、もう良いのだ。次の生きがいを見つけられるのなら。



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