第124話 向上心の無い者は馬鹿だ。
「史郎」
「ん?」
「ありがとう。守ってくれて」
「仕事だ」
「それでも。ありがとう」
志保はじっと、さっきまでいた、さっきまでそこにいた人の席を、空になったマグカップを眺める。
「……後悔は、してないよ」
「しないさ」
「でも、ちょっとだけ、怖いかも」
「大丈夫だ」
「なんで?」
「奏は、一年、志保を見続けたんだ。志保と、少しずつ、友達になっていったんだ」
壊れかけの関係を維持し続けた。
志保の良いところ、悪いところ、見続けた。
奏だって、この場で行われる話の内容は、わかっていた筈だ。その上で、このテーブルに着いたんだ。逃げることだって、できたはずなのに。
「だから、大丈夫だ」
「奏ちゃんのこと、信じてるんだね」
「あぁ」
マグカップをひょいと掲げて、首を傾げる。
「妬いちゃうぞ」
「勘弁してくれ」
「やはは。ところでさ、史郎。私とこのまま、今後もずっと一緒にいると、考えなきゃいけないことがあるんだけど」
「何や」
「……専務かなぁ、多分。とりあえず、大学、行ってもらわなきゃいけないかも。お父さん納得させるには、結構な有名大学行ってもらわないと、いけないかも」
「……急に、どうした?」
顎に指当て考える志保。
内容を少しずつ理解して、俺は少しだけ、震えた。
「あぁ、ほらあれだよ、お見合いとかそういう話にはならないと思うけど、父さんの周りを納得させるには、それくらいしなきゃいけないかも。って話」
パチリとウインク。
「あぁ、そうだな」
志保と付き合うということは、そういうことだ。
いや、志保に限ったことではないが。
俺は、強くあらなければならない。志保が誇れる、彼氏として。
「……ふむぅ」
志保が、見ている。
「史郎、私さ。嬉しかったんだ。今日」
「何が?」
「史郎が、一緒に逃げようと言ってくれて。ううん。わかってるよ。私を父さんと合流させて、一人で逃げても、史郎のことは誰も追わない。追手を分散させるなら、一緒に逃げる必要があるって」
「あぁ」
「それでも、嬉しかった。私を、史郎と同じ場所に立たせてくれて、嬉しかった」
「あ、あぁ」
「それに、時間稼ぎする時も、危ないって止めずに、任せてくれて、嬉しかった」
マグカップを置いて、ゆっくりと足を組んで、志保は真っ直ぐな視線を向けてくる。
「今日は、それだけ」
「おう」
「寝よっ。疲れちゃった」
「そうだな。シャワー浴びてくる」
「……うん」
「史郎先輩からから遠慮を感じる。ですか」
「うん」
あれから、史郎が帰って結愛ちゃんが戻ってきて、普段の警備体制になった。
明日から学校が始まる。
史郎は一応、毎日通って、冬休みの宿題の仕上げを手伝ってくれる。
そして、今日見た史郎の荷物、ちらりと見たら。赤本って奴があった。都内の有名大学の過去問を適当に買いましたって感じだ。
「だってさ、彼女の部屋だよ。泊まるんだよ。それでさ、客間に戻ってシャワー浴びて戻ってきて、おやすみって言って自分の部屋に帰っちゃうんだよ」
「クリスマスの時は添い寝したと伺いましたが」
「うん。添い寝。添い寝だけ。多分、私のメンタルが少し不安定だったからだと思う」
「なるほど」
先輩が遠慮する気持ちはわかる。
志保さんは綺麗過ぎる。
「正月のプールでは……キスされていたようですが」
「迷ったわりに直接的に言ったね」
「迷った結果、ぼかすほどの行為ではないと判断いたしました」
「あれは多分、解放的な気分だったんだと思うよ」
そういえばそうだ。
私はこれから起きることをある程度知らされていたが、先輩は、志保さんを狙う存在の一つを叩き潰せた結果だけがあった。
誰だって、少しは浮かれる。
「でも、だからって、今控えめになる理由も見えませんね」
だって、まさに当日、もう一つ危険を叩き潰したでは無いか。史郎先輩、大活躍だったではないか。
「私が不用意なこと言ったせい、何だろうなぁって」
「不用意って?」
「伝える必要はあったと思うけど、タイミング、マズったかなぁ。私の悪い癖出ちゃったのかなぁ」
志保さんが静かに頭を抱えた。
難しい人だ。
「必要なら仕方ありませんよ」
結愛ちゃんが鼻を鳴らす。
そうだね。結愛ちゃんならそう言う。
必要なら、味方にも銃口を向ける。合理的で、私にとっては好ましい人だ。
「史郎先輩の専門家もう一人呼んで、明日の放課後にでも女子会しましょうか」
「うん。よろしくお願いします」
「史郎君、珍しいね、随分熱心に勉強」
「ちょっとな」
「ん?」
史郎君の家で夕飯を用意しながら淹れたコーヒー、マグカップを目の前に置いて休みなよって合図する。
史郎君がセンター試験の勉強をしている。
そのわきに積み上げられているのは、赤本って奴だ。
「……難しいな」
「そりゃ、今解いているの、二年生の範囲だし」
「奏から習った覚えがあるのだが」
「そうだね。はい、これ参考書の該当部分。それよりも、何で今やってるの?」
「ありがと……準備は早めにだ」
「はぁ。それは良いこと」
しかしながら妙だ。うん。史郎君は悩んでいるように見えていたから。
史郎君の進路の選択肢は、現状確実に見えている物で二つ。
普通に進学するか。お仕事。組織に舞い戻るか。
「志保さん?」
「なぜそう思う?」
「何となく」
「……俺はまだ弱い。俺にはまだ、付加価値が無い。志保が気にしなくても、志保の周りを納得させる。それだけの何かが、まだ無い」
俺はシャーペンを置いて、奏の気づかいに甘えて、少しだけ休もうとグッと伸びをする。
「俺にあるのは、公には言えない仕事で手に入れた手柄ばかりだ。だから、わかりやすい何かが必要だと、気づかされた」
学歴もそうだ。高校は幸い、地元では有名なところに入れた。あとはそこで。
「奏は、生徒会長とかなる気あるか?」
「んー。そうだねぇ。先生から勧められてはいるよ。生徒会」
「そっか」
副会長とか、狙ってみるのも良いかもしれない。
他にも、きっと、色々必要になる。
「それまでは、俺は、自分を磨き続ける」
「ふーん。良いんじゃない。史郎君が頑張れるのなら」
「あぁ」
頑張るさ。志保と一緒にいられるように。全力で。
自分がまだ足りてない、至っていないとわかったんだ。
向上心だ。向上心が無い者は、馬鹿だから。
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