第92話 幸せの温度。
そして、なぜこうなった。
「痒いところ無いですかー」
「……無い」
奏は今、俺の後ろで俺の髪を洗っている。
「ふふっ。なんかいいなぁ。史郎君、もういっそ全部洗っちゃおうか」
「やめい」
「良いじゃん。どうせもう、史郎君の見ていないところなんて後は内臓くらいだよ」
それはそうなんだが。
俺だって、今更……いや、戸惑うな。今この状況、結構戸惑っている。慣れる日なんて来るのか?
でも何だろう、この時間、普通に楽しんでいる自分がいる。
「ったく、代われ。今度は俺が洗う」
「んー? いいよー」
奏が持ち込んでいるシャンプーを泡立てて、洗いにかかる。
髪に触れるという行為。信頼が無いと許されない行為とはよく聞く。
そう考えると、俺、結愛の頭、撫で過ぎたか……信頼されてたんだな、俺。
「むっ、史郎君が他の女のことを考えている気配」
「撫でるぞー」
「撫でるの?」
「……洗います」
理容室、美容室の人は、髪を整える仕事。その道のプロだ。一定の信頼を置ける。だから髪に触れるという行為に対して、俺達は普通に問題無く疑いなくお願いできる。
……いや、俺、奏にお願いするか自分で切ってるから、想像だけど。
ここ半年は、奏が切ってる。
「ねぇ、史郎君?」
「ん?」
「いっぱい、一緒にいようね」
「……あんま喋ると、泡が口に入るぞ」
「史郎君、気をつけてくれてるじゃん」
奏の髪がさらさらで、触り心地が良くて、思わず丁寧になっているだけだ。
言わないけど。
「あっ、お、おい」
トンと、奏が急に寄りかかってくる。
何も遮るものが無い、素肌に、胸板に、奏の頭が。
「ふふっ、ドッキドキしてるね。史郎君ちゃんと生きてるー」
「……ったく」
頭の位置を戻して続きだ。
中身の無い会話だ。だけど、そんな頭の悪い会話が、今は楽しい。
「流すぞ」
「はーい」
丁寧、丁寧、丁寧に、泡を流していく。
流し終えると、奏がパッと振り返る。
「じゃっ、次はお背中だねぇ」
「いや、自分で洗う」
「良いから良いから」
そんな押し問答。俺が奏に勝てるわけもなく。だった。
「はふー」
「だはぁ」
浴槽。身を寄せ合って。何人も入ることを想定していない広さだ。高校生の男女二人が入れば満員だ。
「史郎君、おっさんくさいよ」
「風呂は良いものだ」
「ご飯を欠かすことはあっても、史郎君、お風呂だけはちゃんと入ってたよね」
「何で知ってんだ」
「お風呂の電気、一応、私の部屋からも見えるから」
そんなことチェックしてるのか……。
俺はこれから、世話好きの奏と、どんな風に過ごしていくのやら。
「まぁ、私がいるからには、ご飯を欠かすことも許さないよ」
「あぁ。サンキュー」
素直な気持ちだ。そして、俺はそれに応えられるだけの幸せを、奏と一緒に掴むことへの、誓いだ。
俺が何になり、何を成し遂げるか。そんなこと、俺にもまだわからない。
「そんな思い詰めないで。一人で」
「わかっているさ。俺はちゃんと、奏を幸せにする」
「なら、それ以上に史郎くんを幸せにすれば良いんだね。私」
「なんだよ、そのイタチごっこ」
思わず、笑ってしまう。
そんなの、成立させられるのか、なんて思ったけど。できる気がするから不思議なんだ。
「……のぼせそうだ」
「だね」
そんなわけで、二人で上がる。
奏、本当にのぼせかけていたようで、少し足がふらついた。結構長い事いたようだ。
そのまま、ベッドに直行。眠る準備は整っている。
「ふわぁ、寝るわ」
「はいはい。おやすみなさい」
目を閉じる。暗闇が心地いいのは、確かに、温かいから。
これからもっと温かくなって、夏になっても、これだけは手放したくない。
幸せに温度があるとすれば、きっとこれくらい、優しい温かさの筈だ。
「それで、史郎先輩。これからどうするのですか?」
卒業式の日。俺は、結愛に呼び出された。内容は、わかっていた。
校舎裏。一見すれば、卒業する前に、告白しようとするシチュエーション。
結愛は、俺に全ての答えを委ねている。俺は、考える。いや、ずっと考えていた。
仕事は、やりたいことより、できることで考えた方が、幸せになれるというのはよく聞く話だ。俺のできることは、まさに、組織の構成員として仕事をすることだ。
それなら、俺は奏に、確実に食べさせることはできる。
志保の護衛任務は解かれることになった。いや、そもそも、志保を狙っていたメインの組織は一年生の時に潰したから、結愛は戻される筈だったけど、室長の計らいで、卒業まで一緒に過ごせた。普通の、女子高生として。
だから、もう、俺が組織の組員として働く理由はもう無い。やり残したことは、全部果たせたから。
「まずは、大学に行くよ」
「そうですね。勉強、頑張っていましたから。改めて、合格、おめでとうございます」
俺は、奏と同じ大学に進むことができた。奏は法学部、俺は経済学部だ。
結愛は組織に戻る。当たり前のように、その進路を選んだ。
「それから……」
それから……。
「史郎、決めてないなら、やっぱりうちで雇われない?」
「へ?」
答えを出せない俺に、後ろから飛んでくる声。
髪を後ろに払い、堂々とした足取りで俺の目の前に来ると、胸ポケットから一枚の紙を取り出す。
「これ、契約書」
「用意早過ぎません……志保さん」
「結愛ちゃんにしては手段が温いね。これくらい攻めないと」
「むっ、そういうことなら、私、組織辞めてそっちに入りますよ。転職です」
「やはは。勿論、史郎を引き抜けたら、結愛ちゃんも交渉するつもりだったよ」
志保は、大学で経営を学ぶことを選んだ。それからだ、俺を秘書兼護衛として雇いたいと言い出したのは。社長さんも乗り気なのが結構困りどころ。
俺が軽く頭を抱えていると、校舎裏に入ってくる、もう一つの足音。
「私抜きで随分楽しそうじゃん」
「あー。奏。すまん、待たせ過ぎたか」
「だよ。そろそろ打ち上げ行きたいんだけど」
奏の気持ちはわかる。
だが、俺は予感している。ここで決断を先送りして、大学卒業まで待っても、俺は、また迷うと。
だから、俺は。
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