第85話 移ろう心、揺るぎなき決意

 イキシュ邸のガゼボにて。

 帰宅したカイトは、ぼんやりと昼の空を眺めていた。青々とした晴天に、いくつかの雲が流れている。

 王都の空は穏やかだ。今頃デルニエールで激しい戦闘が行われているのが信じられないほどに。

 今夜にも王都を発つ。明朝にはデルニエールに到着し、戦闘に参加するのだ。


「戦争か」


 考えただけで身震いがする。

 この世界で目を覚ました時、カイトが立っていたのは戦場のど真ん中であった。

 あの時感じた異様な空気は今も忘れられない。マナ中毒の苦しみを思い出すだけで息苦しくなる。

 ソーニャ・コワールに蹂躙された記憶が、カイトの心にさらなる追い打ちをかけた。あれほど明確に死に近づいていく感覚は後にも先にもありえない。いたぶられ、弄ばれ、肉体がゆっくりと潰されていく以上の苦痛など想像できるものか。

 一瞬だけ呼吸が乱れ、カイトは項垂れた。

 今すぐここから逃げ出してしまいたい。元の世界に帰り、母親の手料理を食べ、自室のベッドで眠りにつきたい。目覚めたら高校へ行って、クラスメイト達との世間話に花を咲かせ、勉強や部活に精を出す。そんな普通の生活を送りたい。それができた以前の環境が、どれほど恵まれていたかを思い知る。

 いくら思い返してももう遅い。そんな人生を疎い捨てたのは、他でもないカイト自身なのだから。


「カイトさま」


 ヘイスの声。

 顔を上げたカイトは、ガゼボに立ち入る従者の姿を捉えた。


「カイトさま。改めて、騎士叙任おめでとうございます。ボクも正式にカイトさまの従者として、お傍に仕えます」


 凛として跪いたヘイスに、カイトは困惑する。

 この国において騎士とは上流階級の身分である。平民であり従者であるヘイスが膝をつくのは礼儀作法に則った行為だ。だが、現代日本的な感覚からすれば、十二歳の女の子に跪かれるのは居心地がすこぶる悪い。


「ヘイス。そういうのはいいって。もっと気楽にしてくれ」


「ですが」


「他に誰もいないしさ」


 ヘイスの手を取って立ち上がらせ、向かいの椅子に座らせる。

 身の回りの世話をしてくれる彼女は、いつからか給仕服を着るようになっていた。いわゆるクラシカルなメイド服というやつだ。これがものすごく似合っているものだから、気付けばヘイスの姿を目で追っているなんてことも少なくなかった。


「カイトさまは、不安じゃないですか?」


 膝に手を置いて見つめてくるヘイスに、カイトは努めて笑みを浮かべる。


「デルニエールに行くことに? まぁ、そうだな……」


 不安かと聞かれればそうに違いない。だがそれよりも、恐怖のほうが勝っている。


「フューディメイム卿からお聞きしました。陛下より、敵将を討てとの命を受けたって」


「ああ」


 カイトは頷く。思わず乾いた笑いが漏れる。


「ありえないよな。考えただけでぞっとする」


 素直に口に出すことで少しでもこの恐怖を紛らわそうとするが、胸のざわつきは大きくなるばかり。


「ダメだな俺は。もう逃げないって決めたはずなのに。さっきまでは敵を倒すぞって気持ちだったのに。帰ってきた途端もう弱気になってる」


 鏡を見ずともわかる。今の自分は情けない表情をしている。


「……戦争になんかいきたくねぇよ」


 紛れもない本心の吐露。

 戦うべきなのはわかっている。けれど同時に、逃げ出してしまいたい自分がいるのも確かなのだ。この十日間、死に物狂いで訓練に励んだ。たった十日だ。戦場に出ても、力及ばず死んでしまうかもしれない。

 ヘイスの前ではかっこいい男でいたかったはずなのに、今はそんな見栄を張る気力さえなかった。

 しばし目を閉じていたヘイスは、深呼吸を一つ、立ち上がってカイトのすぐ前にやって来た。


「カイトさま」


 俯いた頭に優しい感触が訪れる。

 ヘイスの小さな手が、カイトの頭を撫でていた。


「……ヘイス?」


「えへへ」


 この世界において、異性の頭を撫でるという行為がなにを意味するのか、カイトはもう知っている。だが、ヘイスがどういう意図で頭を撫でてきたのかは分かりかねた。


「フューディメイム卿が仰ってました。人の心は移ろいやすい。色々な縁に触れては常に変化し続けるものだって。カイトさまがいま弱気になっているのは、一人になって、辛い記憶を思い出したから。叙任式の時にやる気になってたのは、周りの雰囲気や勢いにあてられたせいだったかもしれません」


 頭を撫でられていると、なんだか全身がむず痒くなってくる。


「弱気でいる時も強気でいる時も、カイトさまはカイトさまです。ボクはどっちのカイトさまも好きですよ」


 ヘイスの手が止まる。

 カイトの目に映るのは、華奢な足首だ。彼女が今どんな顔をしているのかはわからない。


「ボクに頭を撫でられて、あの時のことを思い出しましたか?」


「そういえば……」


 ソーニャに体を潰される直前、確か頭を撫でられていた。いまヘイスに同じことをされても、記憶のフラッシュバックはない。


「言われるまで、忘れてた」


「よかった」


 心底安堵したような声。


「それはカイトさまが強くなっている証です。だからカイトさま、自信を持ってください。あなたは強い。きっとソーニャ・コワールを倒せます。頼りないかもしれませんけど、ボクが保証しますからっ」


 声を強くして、ヘイスが言い切った。

 カイトの頬に笑みが零れる。

 確かに頼りない保証だ。そして、何物にも代えがたい最高の励ましでもある。

 カイトの心に、もはや不安も恐怖もなかった。

 ヘイスは、カイトが戦うきっかけとなった人物だ。誰かの為に戦う、その第一の誰かこそがヘイスであったのだ。彼女からこのような激励を受けてしまった以上、もはや葛藤は不要だった。

 カイトが立ち上がると、ヘイスの手が頭からするりと落ちる。


「なんつーか。男をその気にさせるのが上手いな、ヘイスは」


「へぇっ?」


 ヘイスの顔は真っ赤に染まっていた。


「なんだかその言い方はいやらしいですっ」


 いま赤くなったわけじゃないだろう。カイトの頭を撫でている時から、おそらく真っ赤だったに違いない。


「はっはー。ま、おかげで元気がでたよ。ありがとな」


「もうっ。せっかくのいい雰囲気が台無し」


 頬を膨らませてそっぽを向くヘイス。

 成人だと言っておいてこの仕草はすこし子供っぽい気がするが、カイトからすれば年相応の自然な振る舞いだ。妹のカイリを思い出す。


「よし。準備に取りかかるぞ。みんなを待たせるわけにはいかないからな」


 誓いを重ね、決意を重ね、カイトという人間は少しずつ強くなっていた。

 戦いと葛藤の中で自らを変革し、確かに前進してきたのだ。

 生命力溢れる顔つきでガゼボを出たカイトを、ヘイスが早足で追いかける。


「ヘイス。そういえばさっき……」


「はい。なんでしょう?」


 振り返るカイトに、ヘイスは首を傾げる。


「いや、やっぱいいや」


 頭にはてなを浮かべたヘイスから、カイトは目を逸らす。

 そういえばさっき、カイトのことを好きだとか言っていたような気がするが、聞き間違いだろうか。気のせいかもしれない。

 そんなことより今は戦支度が優先だ。

 尋ねるのは、デルニエールから帰ってきてからでも遅くはないだろう。

 カイトは勝利を心に決め、自室へと急ぐのだった。

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