第76話 そして事は動き出す
カイトの訓練が始まってちょうど一週間。
今日も今日とてカイトはデュールに絞られ、その光景をお茶会メンバーが見守る。それがこの家の日課になりつつあった。
今朝はヘイスとリーティアの二人。クディカは私用で外出中である。
「ずっと気になっていたのですが」
訓練の様子をじっと見つめていたヘイスは、ふと思い出したようにリーティアに向き直った。
「カイトさまはハーフェイ将軍に素手で勝ちましたよね? それなのにデュール殿にまったく歯が立たないのはどうしてですか?」
紅茶に口をつけていたリーティアは、カップを置いてほうっと吐息を漏らす。それからゆっくりと瞼を開いた。
「誰にも言ってはいけませんよ?」
彼女は片目を閉じて人差し指を唇につける。翡翠のまつ毛に縁取られた緋色の瞳に、ヘイスはどきりとしながら頷いた。
「イカサマをしたのです」
囁くような小声。
「イカサマ……ですか?」
小鳥のように首を傾げたヘイスに、リーティアはくすりと笑う。
「決闘の直前、私がカイトさんの肩に触れたのを憶えていますか? 実はあの時、身体強化をかけていました」
二人の視線が、剣を振るカイトへ移る。
自身に向けられた視線に気付かないまま、カイトは立ち合いに臨んでいた。剣の扱いに慣れるにつれ、日毎動きは洗練されていく。訓練中のデュールとの会話にも徐々に余裕が生まれつつあった。
「身体強化について少しは学んだか?」
攻撃と共にデュールが問いかけ、
「ばっちり、教えてもらいましたよっ」
防御を併せてカイトが答える。
リーティアの講義で、魔法については一通り学んだ。
彼女が特に重要視したのは、兵士の身体能力を底上げする補助魔法である。後衛術士によって身体強化を得た兵士は、通常の数倍から数十倍の戦闘力を発揮できる。
「建国王カイン一世は、身体強化の術をもって大陸の人間国家統一を果たした。当時としては画期的な魔法だったんだ。治癒魔法もそうだが、人の体に特定の効果をもたらすには極めて複雑なルーンを刻む必要があるからな」
人間が作り出した魔法体系。その極意はルーン文字による発動の理論化にある。
古代において魔法とは神秘の力とされていた。灰の乙女よりもたらされる神の恩恵であると信じられていたのだ。だが、その認識はルーン文字の発明によって覆された。魔法は数ある技能の一つとして広まり、多くに学ばれ習得されるようになり、今の世においては学問の一つと数えられている。
「複雑なルーンを刻める後衛術士は、ものすごい貴重なんですよね」
「そうだな。魔族とやり合えるのも彼らがいればこそだ」
魔族は種として非常に優秀だ。強靭な肉体。莫大な魔力。尋常ならざる生命力。
生物としての性能が、人間とはまるで違う。それは淘汰の結果だろう。力を信奉する彼らは弱者の生存を許さない。
故に人間が魔族に立ち向かうには、後衛術士による身体強化が不可欠なのだ。
「君なら特にそのありがたみがわかるんじゃないか?」
身体強化の効果について、カイトは身をもって知っている。戦いのいろはも知らない素人が、百戦錬磨の武人相手に快勝する。そんな大番狂わせを起こした張本人なのだから。
デュールは段々と剣戟の速度を上げていく。怒涛の連撃にカイトは舌を巻き、次第に口数は少なくなっていった。
離れた場所からその様子を見守るヘイス。彼女もまた身体強化の重要性は深く理解している。
彼女は想像する。もし身体強化をかけられた自分が、強化の施されていないハーフェイと戦ったとして、カイトのように勝利できるだろうか。考えるまでもなく、勝ち目などない。少しばかり身体能力を底上げしようとも、戦闘技術の差は如何ともしがたいからだ。
「カイトさんは特別なのです」
こころもち弾んだ声を受けて、ヘイスはリーティアに視線を戻す。
「この世界の住人とはまったく違う異質な存在。魔法に対する極度なまでの敏感さは、最大の弱点でありながら最上の資質にもなりうる」
魔法の影響を受けやすいカイトの体質は、もちろん身体強化にも当てはまる。ハーフェイと戦った時のカイトの膂力、耐久力、感覚の鋭さは人知を遥かに超越していた。
「でも、魔法なんて使っておられましたっけ?」
ヘイスは謁見の間での記憶を掘り起こす。
魔法を使う際は、魔力の波動やルーン文字の発光が現れるはずだ。あの場にいた全員を欺くことは不可能に思えた。
「使っていないように見せていたのです。現に今、あなたに身体強化をかけていますよ」
「ええっ?」
ヘイスは自分の体を見る。どこも変わったところはない。強化された感覚もない。
それもそのはず。リーティアが身体強化に用いた魔力は粒子一つ分にも満たない。肉眼で発光を捉えられないほどごく僅かな量である。この程度の量であれば、身体強化の効果など皆無に等しい。かけられた本人でさえ気づけない。
「使った魔力はほんの少しだけ。仮に誰かが気付いて指摘したとしても、証明しようのないくらい微量でした」
「すごいですね……」
ヘイスの驚愕は二つあった。
一つはリーティアに対して。魔法の扱いにおいて最も大切なのが魔力のコントロールである。魔法を習う者が最初に躓き、魔法を極めんとする者が最後に到達する境地。彼女の緻密な魔力操作は、まさに神業と言える。
もう一つはカイトに対して。微細な魔力がもたらした驚異的な身体強化は、一重に彼の特殊な体質故だろう。もしリーティアが全力でカイトを強化したら、いったいどれほどの強さを発揮するのか。その果てしなさを思えば、魔王を倒すなど容易いのではないか。
「それだけ強くなれるなら、訓練なんて必要ないんじゃ」
「いいえ。それは違いますよヘイス」
ふと抱いた感想は、リーティアによってすっぱりと否定される。
「カイトさんは今、戦うための心と体を養っているのです。慢心は、英雄を凡夫に堕とす。彼が勇者を名乗るのであればまず自身に打ち勝つこと。五体に巣食う一切の油断を排さなければなりません。まことの自負を身につけるために」
ヘイスは得心する。カイトがいくら強くなろうと、魔法による飽和攻撃でも受ければひとたまりもない。最上の資質は、最強の理由たり得ないのだ。
ともすれば、カイトが訓練に励む意義を否定してしまうところだった。紅茶に映る自分を見つめて、ヘイスは自らの浅慮を恥じる。
「いま戻った」
クディカの引き締まった声。
ガゼボに歩み入った彼女の表情を見て、リーティアから笑みが消えた。
「おかえりなさい。何かありましたか」
「ああ。悪い知らせだ」
椅子に腰を下ろし、クディカは神妙な面持ちで腕を組む。
「魔王軍がデルニエールに進軍を開始した。早ければ一両日中に戦が始まるだろう」
「そうですか。ついに」
王国にとってデルニエールは最後の砦にも等しい。来たるべくして来た、絶対に負けられぬ戦いだ。
「すでにハーフェイの軍が出陣した。カイトにも参内命令が下っている。正式に騎士爵に叙勲された後、私の下に配属される」
ヘイスが用意した紅茶を、クディカは一気に飲み干した。
「陛下はこの戦いでカイトの名を世に知らしめ、反転攻勢の契機にされるおつもりだ」
「カイトさんに武勲を立てよと?」
「うむ」
物憂げな吐息を漏らすリーティア。
「致し方ありませんわね。私達でしかとお守りしなければ」
たった一週間の訓練で戦場に送らなければならないのは、実に心苦しく不安である。それはクディカとリーティア共通する想いだ。同時に、彼に大きな期待を寄せているのも事実。カイトの力は、戦況を一変させる起爆剤になり得る。
「カイトさま……」
ヘイスは不安げな瞳で想い人を見つめる。
未だ拙い剣技で戦場に駆り出される彼の無事を、祈ることしかできない歯がゆさを覚えながら。
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