第2話 武蔵野の露

箱根のお湯は

筋肉のこわばり、胃のつかえ、神経の病に効くと云う。


白襦袢を着たままお湯につかる奥様に


「武蔵野の奥様、お加減はいかがですか?」


と竹垣ごしにタツが聞き、


「お湯が柔らかくてとても気持ちええわあ…ありがとうおタツ」

と都なまりのお言葉が返ってくる。


やがてお湯から上がった武蔵野夫人こと和宮は侍女二人に右手を引かれ、左半身を支えてもらう介助なしでは廊下を歩行できないほど病状が進んでいる。


老舗なだけに何百人もの湯治客のお世話をしている宿の従業員たちは、


お湯に浸かっただけでは長年の食事の偏りから来る江戸患いは治らない。と解っていた。


「宮さまはもう長くはないでしょう…ご本人がなさりたいようにさせるしかないか、と」


往診の医師が侍女にそう告げるのを襖ごしに聞いてタツは袂で涙を押さえるのであった。


「あんな華奢なお体で官軍から江戸城を守るために奔走なさったなんてなあ…きっと俺たちが想像する以上にお体に負担がかかっていたのだろうよ」


と今は料理長になっている夫周吉も同情して奥様のお口に合うような食事を工夫してこしらえた。


ある日、奥様は村の子供たちを館内に招いてお菓子を振る舞われ、その内の男児一人に「お名前は?」と尋ねた。「丈一郎」と答えた男児は今年十才になるタツの長男だった。


「名前通りに丈夫に育ってくださいね」と椅子に座ったまま奥様の優しいお声をタツは一生忘れまい、と思った。


川の音を和らげるため流れに竹垣を建てる工夫をこらした楼主を労って歌会を開いた後、奥様は床から上がらぬ状態になった。


惜しまじな 君と民のためならば 身は武蔵野の 露と消ゆとも


と短冊に書き付けた歌を奥様はこっそりとタツに見せてくれた。うふふ、と奥様は笑い、


「この歌は兄さん(孝明天皇)に当てた文句です。


うち本当は毎日毎夜人斬りが行われているという恐ろしい人たちの住む江戸へなんてお嫁に行きたくなかった…


兄さんとこの国のために嫌々承諾したんです。武蔵野の露なんて、子供っぽい嫌味やねえ」


でも、生まれてこのかた宮中から出たことのないうちには、


東国あずまのくにというのは武蔵野の言葉通り、なんや鬱蒼とした山と森ばかりの、正体の知れぬ恐ろしいもの。しか思えませんでした…。


江戸城へ入っても頑なだったのは、恐くて恐くて仕方が無かったから。


同い年の夫、家茂いえもちさまが誠実で心優しい御方だったからうちは生きてこられたようなものです。


でも、家茂さまも四年後に兄さんに呼びつけられて上洛し、無理がたたって大阪城で亡くなりましてな。


お土産に、と約束していた西陣織だけが帰ってきた時は異人が恐いだけの臆病者の兄さんを恨みました。


倒幕。

それは血気と野心と、徳川への復讐心に満ちた田舎侍とそれに乗じた公家たちの企みでした。


維新を起こした者たちの正体なんてそんなものです。


平気で沢山の血を流す行いを偉業、ですって?

偉ぶった人殺したちの行うまつりごとの先にろくなことはありませんよ。


いいですか、人が誰も手を付けようとしない大それた事をしでかそうとする動機は、恐怖と怨嗟と、強い我欲からです。


それを忘れてはいけませんよ…


勝はじめ幕臣たちの頑張りで大奥の女たちは無傷のまま江戸城を去ることが出来、姑の天璋院(篤姫)さまも私も世捨て人同然に暮らしました。


実はね、七年前に念願だったおでえさん(仁考天皇)のお墓参りを済ませた時に、


うちの人生は終わった。と思ったの。


「やるべき事をし終えると人って体に力が入らなくなるのね。

段々脚気がひどくなってここまで来たんやけど…頭に浮かぶのは上さんとお菓子を食べていた頃の思い出ばかり」


だってそれしか楽しい思い出が無かったんだものね。


と奥様はお笑いになり、これが最期、と自覚なされたのか侍女にたちにいくつかの遺言を託し、


「お願い、骸は上さんの隣に」


と言って間も無く衝心の発作を起こされ息を引き取られました。


諱、親子ちかこ。静寛院宮こと皇女和宮箱根塔ノ沢の宿で薨去。享年三十一歳。


「今ではあのお宿も伊藤閣下もお泊まりになる立派な旅館になってますけどね」


明治四十年。

七十過ぎの老女タツはいきなり箱根の自宅に取材に来た若い新聞記者に自分と武蔵野夫人との思い出を語り終えてから急に厳しい目付きになり、


「あなた方若い人々はやれ悲劇の皇女だ、と都合のいいように書きたいように書くんでしょうがねえ…奥様は露と消える覚悟で武蔵野を救った御方でしたよ。決して不幸ではなかった」


ときっぱり言いきった。


「むしろ世相に躍らされているあなた方の方が死にていの人形に見えますのは気のせいかしらねえ…」


ほほ、と笑ってからタツは客間の戸を開け放ち、蒸していた室内に風を通した。

記者の目にまず飛び込んだのは青空に沸き上がる入道雲。


それは、嘘の言葉を書いている自分は何をやっているんだ?と記者に思わせるくらいの堂々さだった。


「ご覧なさい、箱根はもう夏ですよ」













































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箱根物語〜ある皇女の最期〜 白浜 台与 @iyo-sirahama

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