月にかわって
都々丸@牛の歩み
月にかわって
静かな夜だった。国境にある、崩れ落ちた聖堂。魚の骨のように、ただただ、その骨組みだけが点々と伸びている。その骨組みに混ざるように、わたしは立っていた。
ふと、後ろから誰かが土を踏みしめる音がした。
振りかえる。なにも警戒することはない。このような場所に来るのは、あいつだけであるから。
「静かな夜だね」
「…ああ」
わたしが考えていたことを、あいつも考えていた。そのような些細なことでさえ、とても嬉しいと感じてしまう。
あいつの茶色の髪先が、月光に照らされて透けている。
そうか、今日は月が2つ、空に昇る日だった。だから、こんなにも眩しく静かで、お前が消えてしまいそうなのか。
わたしは、あいつの頭上にあるひとつの月へと目を向けた。
「なんだ、元気ないな」
あいつはわたしの前に来ると、首をかしげた。
「なに、明日は決戦だ。ただ精神を研ぎ澄ませているだけだよ」
「そうか……」
あいつはそう言って、私の後ろの空に浮かんでいるであろうもうひとつの月を見上げて、ふふっと笑った。
「なにがおもしろい」
「いや、ね。この密会は、まるで黒魔術のようなものだったね」
そう言って、愛嬌のある茶色い瞳を、優しく細めた。
こいつはいつもそうだった。いつもそうやって、屈託なく笑う。わたしはそれがとても好きだった。
「ああ、この背徳感を味わえるのも、今日で最後だ」
その笑顔に答えるように、わたしも口角を上げた。
「……私は、君のこと、大好きだよ」
「わたしだってそうだ、お前はかけがえのない親友だよ」
不意に、封じ込めておいた何かが蓋を押し上げる。
これは、だめだ。私はこの国の上に立つ者で、こいつは
「生まれ変わったらさ」
「……うん?」
「生まれ変わったら、月になりたいな。こうやって、夜に同じ空に浮かんで、静かに光を落とすだけ」
「それは、実に平和で、よい考えだ」
静かな光に照らされているはずのあいつの顔に、不安の影が落ちた。
「……どうして、戦争なんて起きるのだろう」
「お互いの正義があるからだ」
「正義なんてそんな、綺麗なものなのだろうか……」
正義なぞ、この戦争には存在しない。あるのは欲に大義名分をひっつけた、汚いものだけ。そのようなこと、わたし達はわかっている。いずれは国の長になるわたし達が、わかっていないはずがない。
だけれど、人に、月に、世界に問わずにはいられないのだ。なぜわたし達の仲を引き裂くのか、と。
「一面から見れば、たいそう綺麗なものだよ。しかし今度は、月になるのだろう。どこから見ても綺麗な、月に………。わたしのことはお前が殺してくれよ」
あいつの顔が驚きで染まった。
わたしも、驚きで固まる。
このようなこと、言うつもりはなかった。だって、これが……これが、最後の、友としての会話であるかもしれないというのに、こんな……
わたし達を、2つの月が照らし出す。
もういっそ、その光の中に溶けていってしまいたかった。
「だったら、私も、この命を終わらせるのは、君がいい」
静かな光の中で、あいつの声が聞こえた。
「君に、この命をあげよう」
気が付けば、わたしは額をあいつの肩口に押し当てて泣いていた。もう成人したというのに。幼い子どものように、泣いていた。
「くそっ、その言葉忘れるな……。お前の命は、わたしの、わたしだけのものだっ……」
「幼い頃、大人びた態度のくせに泣き虫で……。大人になった今も変わらないな」
わたしの後頭部を、あいつが幼子をあやすように撫でた。それが悔しくて、恥ずかしくて、嬉しくて、さらに肩口に額を強く押し当てる。
「君の命は私だけのものだよ」
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どこかで馬がいなないた。長く甲高い声。
昨日の夜のことを想っていた私は、そのいななきで我に返る。
上がる砂埃と人間の声、金属のぶつかり合う音が、私の頭に無理やり入ってきた。
小高い丘の上。眼下には我が軍勢。戦いは佳境を迎えていた。
我が国はあとわずかで、勝利をこの手にできる。
しかし、そんなものより、私は、もっと、大切なものがある。
「
「交戦地のほぼ中心、聖堂のあたりで戦っているところを目撃されています」
「そうか」
私は馬の腹を蹴り、丘を下った。
「ど、どちらへ行くおつもりですか!」
「勝利をここから眺めているだけだなんてつまらないだろ。決着は私がつける」
国王からは待機の命が下っていたが、もう、どうでもいい。
部下の声を無視して、混沌の中を馬で駆ける。
埃と血の匂い、手当たり次第に打ち込んでくる敵兵。それらに感化されて、血が沸く。
ふと、喧騒の中、特徴的な金属音が私の耳に入った。
ああ、知っている。これは、まるで月の光のように鋭くて……。
あいつの愛剣。月光を浴びせ、鍛え上げた、白い剣身が脳裏によぎる。
不意に、太陽の光が何かに反射して強く目に刺さった。私がわずかに目を細めたところを、敵兵が切り込んで来る。そいつの顔面を片手で受け止め、放り投げ、馬の頭を別の方に向けた。
「そちらか」
太陽の光を反射したものがある方向へと、一気に馬を進める。
近くなる鋭い金属音に、私の心臓が鼓動を速める。
やがて、いくつもの人の頭の向こうに、魚の骨のような影が見えた。
……いつだったか、あの聖堂をそういう風に喩えたのは、あいつだったな。
私は思わず口角を上げた。聖堂に近づくにつれて、あいつの気配を確実に感じ始めていた。しかし、同時に胸が何か重たいものを湛え始める。
それをごまかすように、愛剣の柄を指で撫でた。
「来たか」
自軍の兵が何人か吹き飛ばされた間から、声が聞こえた。それは、昨日ここで聞いた声より、幾分か濁りを含んだ声色だった。
私は馬を降り、あいつの目を見た。琥珀のような瞳が、私を見返した。
「今のいままで高みの見物をしていたお前が、ようやっと腰をあげたこと、とても嬉しいよ」
「ああ、私も。君に会えて嬉しい」
こうやって二人、向かい合っていると、ここが戦場のど真ん中であるという事を忘れてしまいそうになる。周りの喧騒も、鼻をかすめる土と血の匂いも、全て認識の外へと離れていくようだ。
このまま、もう、あいつの手を取って、混沌を抜けて。そうやって、二人で消えてしまえたらいいのに。
私達の頭上の太陽は、そのようなことを絶対に許してくれないような、強い光を地上に落としている。
私は剣を鞘から抜き、一歩踏み出した。あいつは私の動きをひとつも見逃さないように視線を向けながら、剣身を振って、そこについていた赤黒い色を払った。そして、その薄い唇をきゅっと噛み締めた。
「そのような顔をするな……。わかっているだろう、お前だってわたしだって…っ」
朝靄のような、私にだけしか聞こえないような声で苦しそうに呟いたが、「わたしだって」の続きを紡ぐ前に、その唇は動きを止めた。
動きを止めた原因はすぐに分かった。私の肩が、焼かれるように熱を持ち始めた。背後からは荒い息遣いが聞こえる。
「き、さま…っ」
敵兵が、私の肩に斧を振り下ろしたようだ。
気付かなかった。だって、私の世界に奴は存在しなかった。私と世界を共にしていたのは、あいつだけだった。
熱い、私の体内で煮えたぎっていた血が、じわじわと服に染みていく。
斧頭を動く方の手でつかみ、怒りに任せて引っ張る。骨をも砕いたのであろうその刃は、ゆっくりと抜けていく。傷口から、どんどん赤が溢れてくる。熱い。
「…あ、あああっ!」
ようやく刃先が私の肩から顔を出した。斧を放り投げて背後を振り返る。腰を抜かした敵兵が、無様にも尻で砂に跡を残しながら後退る。
動く手で奴の顔面を鷲掴みにする。か細い悲鳴を上げた奴は、この行為の意味が分かっているようだ。
奴に魔術をかけ、思い切り投げる。人形のように宙に上がった体が風を切り、着地点の人間を巻き込んで、爆発を起こす。鼓膜を抉るような轟音。熱風と砂と破片が巻き上がる。その破片は、地上にはらりと舞いもどり、また爆発を起こす。
もう、なにも関係ない。敵も味方も。正義も国も。すべて、私にとってはどうでもいい。私が認識したいのは、手を繋いでいたいのは、あいつだけだ。私の世界にいて欲しいのは、あいつだけだ。
爆発の中、私はあいつを探した。肩から溶岩のように流れ落ちる血が、地面に水溜りを作る。時間がない。
不意に、黒煙の中、鋭く光るものを目の端に捉えた。必死にそちらへ足を動かす。体の中の熱は、どんどん外へ逃げていく。
私の名を呼ぶ声が聞こえた。暗い雲の合間を静かに刺すような、澄んだ声。
速くなる呼吸と共に、私はあいつの名前を吐き出した。それに答えるように、黒煙の向こうから、あいつが姿を現した。私の姿を見とめると、愛剣を放り投げて駆けてくる。
あいつがもう一度、私の名前を呼んでくれた。とたん、足から力が抜け、私は膝をついて前に倒れる。そこを力強く受け止め、ぎゅうと抱きしめられた。傷口のある肩は血で滑りやすくなっていて、あいつの手がずるりと滑った。それでも、あきらめずに肩を力強く抱きしめられる。どんなに強く抱きしめられても、痛いと感じることはなかった。
「約束…破ってしまった……」
そう口にした途端、目に熱い液体が溢れた。
最後の夜に、こいつは私に命をくれると言った。だから、私も、この命はこいつにもらって欲しかった。奪われるなら、こいつに奪い取って欲しかった。
だというのに、愚かな、無様な、無念な……。私に深い傷を与えたのは、名さえ知らず、顔さえ、もうよく覚えていない奴だった。
瞼を閉じると、目が湛えていた温かいものが、頬を伝う。
暗がりの中、息を吸う音がすぐ近くで聞こえる。吐く息の温かさを、抱きとめてくれる体に宿る命を、とても、とてもすぐ近くに感じる。えづく声から、こいつも泣いているのだと気付く。
「……お前を、嘘つきにはしない」
決心がついたような、かたい声色に、私は重たい瞼を開けた。
すぐそばに、ゆらゆらと光る瞳があった。まるで、地平線に添うように浮かぶ月の色だ。
あいつは立ち上がると、力の抜けた私が倒れないように気を付けながら、背後に移動した。どし、と地面に腰を下ろす音が聞こえ、うしろに引っ張られる。あいつの胸に体重を任せる形になった私は、ただ次の行動を待った。
「剣よ」
あいつがそう言いながら片手を伸ばすと、先ほど放り捨てられた剣がこちらへ飛んできて、手のひらに大人しく握られた。そして、白く綺麗な剣身は、その長さをひとりでに変えた。
「お前も知っているだろう。この剣は、持つ者の意思に添うようにその長さを変える」
穏やかに言いながら、あいつが傷を負っていない方の私の手を掴み、その剣の柄を握らせた。
「ああ、君がそうやって、鍛えたんだったな……」
うまく力が入らない私の手を包むように、あいつも剣の柄を握った。
剣の切っ先は、私達の方に向かっている。おぼろげな意識の中、月のような剣と、あいつの体温が、唯一、私が認識できているものだった。
「わたし達が月になるのなら、今浮かんでいる月はどうなるのだろうな」
「そんなこと、知る由もないよ。…というか、どうでもいい……」
「そうだな。わたしとお前、それだけがあればいい」
背中に、あいつの鼓動を感じる。それは、弱くなっている私の鼓動と重なっていて、そのことがとても嬉しいと感じた。
柄を握る手に力が加えられる。鼓動に、切っ先が近づく。
はやく、私の命が、消える前に……。はやく。
「…私の命は、君だけの、ものだよ…っ」
胸を、月の光がつんざく。しかし、白んでいく視界に負けないように、柄だけは、放さないように…。
押し進む剣身は深く鼓動に刺さり、背中へと抜けていく。
背中ごしにあいつの鼓動が乱れた。それでも、私達を貫くものが止まることは無かった。
「…っわたしの命は、お前だけの、ものだ……」
そうして、白い光に呑まれる意識が、私が、最後に聞いたのは、あいつの、満ちたりたような声だった。
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