どうしてそれを書いてしまったの?

もちやまほっぺ

第1話 それを書くのは必然だったのか?

 無視しても良かったんだけど、胸のつかえみたいに引っ掛かってとれないから、同じ場所を行きつ戻りつしてた。どうしても気になって、応募要項は何度も繰り返し読んで、武蔵野の範囲を地図で調べたり、国木田独歩の武蔵野も青空文庫で流し読みした。投稿作品はいくつも読んでみた。

 投稿作品に夏が舞台の作品がちらほら見受けられるのは、今が夏だから? 結果発表は十月らしい、そのころはもう秋だといいな。ちなみに、国木田独歩の武蔵野は秋とか冬の記述もあった。異常気象のせいでここ数年の秋は本当に短い。酷暑の夏が長くて、涼しくなるのが遅い、そして、ちょっと寒いなぁぐらいの冬がきて四季を全然楽しめない。雪が全然降らなかったよね、去年は。運転するには楽だけど四季が壊れて情緒がない。春も短い、またすぐ夏になる。

 武蔵野のエリアに住んでいたから、他の投稿作品みたいに思い出の冷凍庫から綺麗な部分や使いやすい部分を解凍してそれっぽく仕上げる手もあった。でも、思うんだ。見た目が美しい小説は死んだのだ。三島と川端でおしまい。新しい時代に生きる我々は新しい革袋が必要で、彼らを超えるのは無理。だから、純文学は流行らない。

 面白いか面白くないかの快楽直結型エンタメ小説が主流になって随分たつ。でも武蔵野は、ふわっとした現実の場所だから、思い出の冷凍庫から面白い素材を解凍するしか面白い話は書けない。SFやファンタジーに持っていくには文字数が足りない。正直言って、この手のエンタメ小説もそろそろ死んでいい。学びがなくて後に残らないから。面白かった満足感だけで時間を浪費するから。それに、最近は設定なり感情表現なりが過激に過ぎる。何かを過激にしないと満足できないのは、最初は少量で良かった麻薬の使用量を増やしているのと同じでしょ? もう末期。

 表現をするなら、新しいものでないと。新しいところで前の人たちより抜きん出ていないと。焼き直しの表現は既視感があるから安心だけど、今を生きる表現ではない。だから提案です。読んでみて学びがあるものを次代の表現にしませんか。真理が書いてあるものを。あるあるの共感じゃなくて絶対的な真理を。

 先代が技巧的な表現を極めてしまった、今は過渡期を過ぎて末期にある刹那的快楽主義。だから次は中身に意味のあるものを選びましょう。それは古典になるわけだけど、古典に挑戦できる知力を我々はもう持っていない。古典もどきを流行りにして古典に返る、原点復帰。

 これが私の武蔵野。

 

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