銀の小鳥 〜ランドナー〜
霧の中からトンネルが現れた。
ナトリウムランプの色はマグマを連想させ、なんとなく不気味だ。
覚悟を決めたわたしは、一度深く息を吸い、相棒の銀色のランドナーと共にトンネルに入る。
トンネルの中は登り坂になっていて、車一台通らない。
わたしはきつい登り坂をゆっくりと登っていく。
ただでさえランドナーは重いのに、長旅に備えて持ってきた荷物たちがわたしを余計に苦しめる
わたしが自転車を好きになったのは、高校生くらいの頃だろうか。
中学校の頃から使い続けていた銀色の通学用自転車に乗って市内を散策していた。
失敗続きでめげそうになったとき、自転車に乗ると気分が楽になる気がした。
大学生になり、わたしは中古のランドナーを入手し、それを修理して本格的な自転車旅を始めた。
ランドナーは旅に向いた自転車の一種で、丈夫で安定性と乗り心地を重視したフレーム、泥道に強いブレーキ、荷物を載せるキャリアを備えている。
見た目はロードバイク(ロードレーサー)に似ていなくもないが、設計も用途も全て異なる。
わたしにはランドナーが似合っていると思う。
ランドナーは決して、わたしを山の中で遭難させたりしない。
タイヤはパンクに強く、
マンガンモリブデン鋼製のフレームの乗り味は滑らかで、悪路でもびくともしない。
このトンネルは長い。
それに微妙にカーブしていて、出口が見えない。
わたしは顔の汗を拭う。
顔にはまだ、防護服のゴーグルがつけた傷跡が残っている。
数年前のあの日をわたしは忘れない。
上司や同僚、親友が、髪を剃り、わたしもあとに続いた。
当然、誰一人嫌だと思わなかった。
長い髪は防護服を着る時の妨げになる。
自分で選んだ職業だ。後悔はない。
皆、それくらいの覚悟は決めていた。
事態が収束したら、全員でここに戻ってくることを誓い合った。
それから三ヶ月間、いろいろなことをしたけど、記憶に残っていない。
ある日、わたしは病室のベッドで目覚めた。
わたしも新型ウイルス感染して倒れたのだ。
結局、医師も中身は普通の人間だった。
あの時期に感染した者のうち、わたしのように助かった者は少数派だったらしい。
上司も親友も、わたしが担当していた患者さんも、今はもう会えない。
わたしはウイルス検査の結果が陰性になると、すぐに現場に復帰した。
そのあと、わたしは何人もの命を助けたらしい。
収束宣言が発表されたあと、わたしはなにもできなくなった。
毎朝、目覚めるたびに、あれはただ悪い夢を見たのではないかと思ってしまう。
そして、鏡に映った自分の顔を見て現実に引き戻され、大泣きする。
今でも、スマートフォンを見るとき親友から連絡が来ていないか、確認するときがある。
もう一度、一緒に食事がしたかった。
そのうち、わたしは家から出られなくなった。
どこにいっても、顔の傷のせいで、わたしに何があったかは丸わかりだ。
感謝されることもあるし、同情されることもある。
誹謗中傷を受けることもある。
できれば特別扱いはされて欲しくなかった。
わたしは、ただ、普通に生きたい。
小さい子供に、指をさされたこともある。
当然、その子は、あとで親に怒られた。
嬉しいはずがない。でも、不思議とそれほど嫌な気持ちにもならなかった。
トンネルの中は、湿った空気で満たされている。
汗がだらだらと垂れ落ちる。
壁から地下水が湧き出ている。
いつまでも続くオレンジ色の空間。
半年以上引きこもってから、わたしは再びランドナーに乗り始めた。
ランドナーに乗って旅をし、写真を撮って、ブログの収益で生活する。
こんな生活をいつまで続けられるか分からないが、今はこうしていたい。
美しい景色はわたしが誰であろうと関係なく出迎えてくれる。
冷たい風が頬を撫でる。
あれから随分と伸びた髪がなびく。
トンネルの出口が近い。
長いトンネルを抜けた銀色の小鳥は、どんな景色に出会うのだろう。
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