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仏教のおもしろいところは、現実の人間と、観世音菩薩のような、仏さまが、対話したりしているところなのです。維摩経というお経では、智慧の菩薩と言われている、文殊菩薩が、釈迦の使いで、維摩居士のところに行くのですが、そこで、維摩居士から、きつい、お説教を受けるという構成になっているのです。なんとも、他の宗教には、無い経典です。
それに、この時代のインドの宗教界は、日本の戦国時代のようですね。三千人もの、弟子(兵士)がいる、武将が、釈迦の方に、靡いてしまうというのは、より強い武将に、他の武将が、平伏してしまう姿に、似ている気がします。やがて、バラモン教は、力を失い、仏教にとって替わられます。
さて、本題の「心経」に戻ります。観世音菩薩が、舎利子に、説きます。
「色不異空 空不異色」
ここで、難しいのは、「色」と、「空」です。一旦、色を「かたちのあるもの」と、捉えて下さい。かたちのあるものは、二つの要素から、成り立っているのです。一つは、「形色(ぎょうしき)」といいまして、ものの、形状を指します。二つ目は、「顕色(けんじき)」と言いまして、ものの色合い(色彩・明暗)を指します。これが「色」ですが、「空」は、全く、見えない、聞こえない、匂わない、味もしない、触りようがない、従って、存在感のないものです。
この二つに、対して、
「色は空に異ならず、空は色に異ならない」
そして、「色は、即ち、是、空なり」「空も、即ち、是、色である」と、説きます。つまりは、両者合一である、と説くのです。暫くは、観音さまの、お説きになることに、耳を傾けましょうか。
しかし、そればかりでも、つまらないので、ちょっとした、エピソードを、加えてみましょう。
私の住んでいるところは、お寺ですから、普通のお宅では、起こらないことが、起こります。
「あれ? 誰か来たね・・・」
と娘に、いいます。娘は、尼僧で、第二世の住職です。感も鋭い方です。
「ええ。何か、物音がしたわね」
で、ドアを開けてみますが、誰も、おりません。このようなことは、たびたび起こります。色不異空なのです。
「きっと、組合員の人だな」
と私が言います。
「きっと、そうね」
と娘が、頷きます。組合員の人というのは、私と娘にしか分からない、合い言葉のようなもので、このお寺「願行寺」の墓苑に、眠っている人たちのことを、そう呼んでいます。組合の会長が、私で、副会長が、住職の娘です。眠っているだけでは、退屈なので、散歩に出たのかも、知れません。存在自体はありません。でも、何かは伝わってきます。「色即是空」なのでしょうね。それに、通る場所と言いますか、コースが、不思議と決まっているのです。
「受想行識も、亦復(またまた)、是(かくの)如し」(受想行識 亦復如是)
ここで、難しいのは、「受想行識」ですよね。
これは、人間の脳の仕組みを、分析、構成したものなのです。これに「色=眼」を頭に、足すと、理解しやすくなるかも、しれません。「色受想行識」の五つです。
ここに丸いものが、あります、丸の中央部に、凹みがありますね。形色です。あ、顕色は、ほぼ、赤色です。と、言うものを見ます。見たものを、脳の回路に送ります。受です、それを、脳のいろいろな、
回路の分野に送って、ああでもない、こうでもないと、検討します。想です。やがて、過去の、経験知から、「うむ。食べ物らしい」と、判断します。行です。そして、「ああ。リンゴだ」と、分かります。識です。それらのことも、いままでのことと、同じだよ、と観音さまが教えます。
誤解しないでください。リンゴのことを、いっているのではありません。脳の手順のことを、言っているのです。それらも、「色不異空」なのです。
それはそうでしょう。渡る時には、一切不要のものですからね。
「舎利子よ」
観音さまが、再び呼びます。
「是諸法空相」
これらの諸々の法は、空相である。と、説きます。
空相とは、何でしょう。ここが、理解出来れば、大きなものが分かって、くるのです。
元々、「摩訶般若波羅蜜多心経」は、「般若部」のものです。般若部六百巻の経典の山は、「空」の思想を説いたもの、とされています。「心経」は、本当に短い経典ですが、その中に、六百巻の枢要を、説き明かした、大切な経典なのです。
いくら説かれてみても、此岸にいて、彼岸のことを、理解しろと言われても、所詮は無理です。従って、此岸にいて、涅槃のような、悟りの境涯になるのを、有余涅槃(うよねはん)と言います。
「悟ったぞ!」
と思っても、まだ、此岸にいるのですから、残りの、人生があります。その、残りの人生の間には、迷うこともあります。故に、余りの有る悟りということで、有余涅槃とよびます。対して、彼岸に渡った人の、悟りは、本物でしょう。もう、この世には、何もないのですから、迷いようが有りません。ゆえに、
「無余涅槃」
と、言うのです。このことを、「空」と言っても、間違いではないですよ。生身の体(色体)では、本物の「空」を実感するというのには、無理があります。
ですから、観音さまも、舎利子に、「是らの諸々の法も空相である」と、説いたのでしょう。
「あっち(彼岸)にいってみなさい。空相であることが、分かりますよ」
と言うことじゃ、ないかなあ。
だから、対告衆に、色身(生身)の、舎利子を選んだのではないかと、思います。舎利子は、偉大な人であっても、彼岸の未経験者ですからね。観音さまは、そのことを伝えたかったのでしょう。
これで、ハッキリしました。スッキリもしました。
「『摩訶般若波羅蜜多心経』は、死に逝く人への、慈悲深い、『一大マニュアル』経典だったのです」
誤解しないでください。死んでしまった人への、マニュアルではありません。死んでしまった人に、マニュアルは、必要ありません。
まさに、死に逝く人、及び、その近親者に、とっても、いや、もっと言いましょう、遺された人々への、「慈悲のマニュアル経典」なのです。観音さまは説きます。
「不生不滅 不垢不浄 不増不減」
「生まれず、滅せず。垢つかず、浄からず。増えず、減らず。つまりは、ありのままである。死ぬとは、そういうことです。
「是故空中」
かるがゆえに、空の中にある。「無余涅槃」の中にある。
ここまでは、お分かり願えるもの、ということで、筆を進めております。
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