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 さて、「摩訶般若波羅蜜多心経」の、最大の、キーワードは、一番最後の、「ギャテイ(ワードに文字がありませんので、片仮名でかきます。ここは、真言であり、陀羅尼(ダラニ)ですから、元々、音写ですので、漢字に、意味はありません)偈(げ)」から、お話を、していきましょう。

「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボージー、ソワカ」

 最後に、「般若心経」とお唱えしますが、オリジナルにはなく、後から足された、一句であるという説があります。

 これを梵語での述べますと、

「ガテイ、ガテイ、パーラーガテイ、パーラサンガテイ、ボウディ、ソワカ」

 となります。これを訳しますと、

「渡った(逝った)、渡った(逝った)、みんな渡った(逝った)、一人残らず渡った(逝った)、これは、まことに、めでたし」

 これは、仏教の一大側面である、タナトロジーの、大団円を呪(しゅ)、呪というのは、呪いと書きますが、仏教では「呪い」と書いて、呪(しゅ)と読みます。真言(マントラ)のことのです。その真言に込めた、仏の大慈悲であろうと思います。人生の二大主題は、他でもありません。「誕生」と「死」なのです。

 「死」んで、その後、嫌なところにいくのは、誰でも、恐ろしいことでしょう。

「そんなところに、逝きたくない」

 その思いが、実に単純な、

「死んだらどうなるの?」

 という、人間の、最大の疑問になるわけであります。

 さて、もう一つの一大主題の「誕生」でありますが、これは、タナトロジーと、真っ向から対峙する、セクソロジーであろうと思います。このことは、すでに、「心毒の海を渡る」(改A)に述べています。あるいは、私の著作である『人が死なない理由』(国書刊行会)で出版されている本を読んでください。

 実は、誕生してくる人口の数と同じように、死んでいく数も多いのです。死んでいく人たちが、ズラリと、並んで、順番待ちをしているのです。それは、大きな病院にいけば、すぐに、判明するはずです。死んでいく人たちには、健康な、人たちが持っている、生命力の、横溢感が、ないのです。

「死に、救いを、求めるように、なります」

 人は、病気や、怪我や、事故や、その他のことで死ぬのではないのです。その人の、生命力が尽きることで、死ぬのです。

死んでいく人には、独特の負のオーラが出ているのです。

生き抜く人は、生に対して、貪欲です。

寺に、長いこと、雑用をしてくれていた、おじさんがいました。今は故人になっていますが、死ぬ、一週間まで、寺で仕事していましたが、ある日、帰り際に、

「先生。俺は、もう、ダメだ。これで、やめる。体が持たなくなった。長いこと、面倒みてくれて、ありがとうございました」


と、帰って行ったのです。山形の出身の、おじさんでした。突然のことだったので、言われた、私の方が、呆気にとらてしまいました。そして、一週間後に、逝ったとの知らせがありました。

 その、おじさんは、満州で歩兵をやっていて、敵が来るのを、塹壕の中で、待っていたそうですが、あるとき、何でもない奴が、突然、

「ああ・・・俺は、死ぬ!」

 と、狂ったように、いいつのり出すのだそうです。

 すると、不思議に、その人物に、敵の弾丸が、命中してしまうのだそうです。

 死の、オーラに取憑かれてしまうのでしょう。人間、最後は、医師の腕でも、薬の力でもないのです。本人の、

「何が何でも、生きるのだ!」

 と言う、力なのだと、思います。生命力こそが、人を生かしてゆくのだと、思います。

 この時に、仏は、どこに、いるのでしょう? 天上でしょうか? 地の下でしょうか?

 一体、釈迦牟尼仏とは、誰なのでしょうか? 観世音菩薩とは、誰なのでしょうか?

 絶対に、ここを、ゆるがせに、考えてはならないのです。

 信心を、心の杖に、生きてゆくのは、大賛成です。しかし、最後の一瞬だけは、杖を離して、自分自身の力で、この大地に、屹立して下さい。

 そして、「ギャテイ偈」にあるように、自信を持って、渡るのです。それが、仏さまが、心の底から、念じておられることなのです。それが、「摩訶般若波羅蜜多心経」の神髄なのです。

 これには、本当に、貴重な、エピソードがあります。

 私の、友人の僧侶が、おりまして、彼は、鎌倉の円覚寺の、宗務総長をしていた人物ですが、残念なことに、末期癌になって、げっそりと痩せてしまい、ある種のことを、想像させるのにたる、体型になってしまいました。その、彼に、逝く三日前に、呼ばれたのです。なにごとだろう? と思いました。

「我々の仲間で、本を書くのは、牛さんだけだ。で、これは、『業(ごう)』だから、牛さんは、また、いつか、『心経』を書くだろう。だから、言っておく。『心経』は、『ギャテイ偈』のために、書かれたものだ。その前は、お題目に過ぎない。俺は、もうじき逝く。坊主だ。だから、見える。『心経』がな。次に書くときは、忘れるな。『ギャテイ偈』だぞ。頼む。それで、多くの人が救われる。頼んだぞ。呼んだのは、それだけだ」

 帰路、涙で、運転が出来なくなって、自動車を、道端に寄せた。

 その、「摩訶般若波羅蜜多心経」を、今、書いている。

 渠(かれ)の言う、多くの人が、救いを求めて、雲霞の如く、行列をなしている。今、その、彼岸は遠くにある。だが、必ず、その順番は、幸福とともに来る。そして「ボウディ・ソワカ」(みんな渡った、めでたし)となる。

 仏は、誰だ? 考えてみろ。己の腹の底を、指さしてみろ。居るだろう。見事な仏が。それを、釈迦牟尼仏という。

 だから、みんな安心をして、渡れるのだ。

 渡れば、そこは、中有の世界である。平等性智の世界である。平等性智とは、全てのものを、あまねく平等に見る、智慧の世界である。

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