ストップ戦記用洗剤

ねこかめ

第1話

「食洗機用洗剤」

 確かに私はそう言ったはずだが、Alexaはまた聴き間違った。

 いつもそうだ。

 Alexaの聞き間違えには慣れている。


 トップバリュのインスタントコーヒーにお湯を注ぎながらテレビのリモコンを押す。

 淹れたての熱いコーヒーに口をつける暇もなく洗面所に行き、アイボンで目を洗い、黒目が大きくなるコンタクトを付ける。

「仕事用にコンタクトを買おうと思うの」

 二年前、そう言った私に夫は不快感を隠さなかった。

「今さら綺麗になってどうするんだよ、浮気でもする気?」

 半笑いで蔑むようにそう吐き捨てた夫に、もはや何の感情も湧かなかった。

 この先何があっても、何がなんでも絶対に自由になってやる。そう心に決めていた。

 仕事用にコンタクトを購入した私は、プライベートとは違うオフィシャルな自分を手に入れた。

 それは間違いなく自立への鍵になった。

 コンタクトを付けた途端、私は籠の鳥ではなくなる。

 誰のママでも誰の奥様でもない。

 付属品ではない私。


「おはようございます」

「おはようございます。あれから息子さん大丈夫でした?」

 あぁ、そうだ。昨日息子が泣きながら職場に電話してきて早退させてもらったんだ。

「大丈夫です。ちょっと新生活に慣れるまで時間がかかるみたいで…ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

 頭を下げるのも、もう慣れた。

「ならいいけど…また何かあったら言ってね。ねぇ息子さんは養護学校とか入れないの?」

 したり顔で、或いは興味本位で、無知の善意で何か言いたがる人の相手にも慣れた。

「そうですねぇ、なかなか難しくて…ハハ」

 なんとなく誤魔化すのも

「私の友達は養護学校に入れてるのよ?」

 すっとんきょうな言い分に

「そうなんですかー」

 当たり障りなく笑顔で返すのも、

 全部、慣れた。

 子持ちの女なんぞ、どこに行ってもこうだ。

 所詮、誰かのママであることからも誰かの奥様であることからも逃げられない。

 常に最善を尽くし、常に善きママ善き妻であることだけが社会にとって無害であると認められ、そこではじめて生存権が与えられる。

 私が、たった一つのコンタクトレンズを手に入れるまでどれだけ苦労したかなんて、この世界にとってはなんの意味もないのだ。

 少なくとも、今の私の世界では。


「ねこかめさん」

 仕事の手を止めて振り向くと上司が立っていた。

 資料を差し出しながら

「この内容、誰かに教わりました?」

 テキパキと話す。

「いえ、まだです」

「じゃあ今からちょっといいですか、僕がお教えします」

 私より一回り年下で私よりキャリアも浅いが、パートの私にとっては直属の上司だ。

 一昔前は女の仕事と言われたこの業界も、近年は若い男性が増えてきた。

 まだまだ厳しい雇用条件には変わりないが、職業選択の一つとして男性が就職できるようになったことが喜ばしい。

 いい時代になったと思うと同時に、いつの間にかそんな年齢になったんだなぁ…と我が身を振り返り、思わずため息をつく。

「仕事、しんどいですか?」

 ため息に気付いた上司が顔を覗き込む。

「あ、いえ、そんなことないです。すみません」

 なんとなく誤魔化して、悪くもないのにすぐ謝る。

 もう私の体に染み付いてしまった悪い癖だ。

「そうですよね、ねこかめさんは僕よりキャリア上ですもんね。尊敬します」

 キャリアか…。

 29歳で一番上の子を出産した私は、その後下の子供達の妊娠出産子育てを繰り返し、気が付いたら40代になっていた。


 私の30代はどこに行ったのだろう。

 私の10年は、一体どこに消えたのだろう。

 誰かのママでも奥様でもない、私自身の10年は。

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