テーマ:待ち合わせ「お金は生きている」
私がまだ十歳頃の話です。戦後という言葉はいささか時代遅れとなり、庶民が三種の神器を求めつつありながらも、街はまだ貧しい人たちであふれていました。幸い父が行政の仕事をしていた私は、何とか生活に困ることはなく過ごしていました。そんな時代の私たちにとってサーカスは苦しい毎日を忘れさせてくれる夢のような存在でした。
その日は待ちに待ったサーカスが来る日。私は入場券を買うために父と列に並んでいました。ライオンのこと、ピエロのこと。ダンボは本当にいるのか、そんな話をしながら胸を弾ませていたのを覚えています。そんな時、ふと後ろに並ぶ親子が気になりました。手をしっかりと握られた父と子。私たちと同じ親子なのに、外観は大きく異なっていました。服は汚れ、靴はぼろぼろ。その頃は珍しくない光景でしたが、サーカスを観に来る家族としてはその場に似つかわしくない様子でした。お金は大丈夫だろうか、子ども心に余計な心配をしたものです。しかしみすぼらしい服装であっても、子どもの目だけはきらきらと輝いていました。これから来る夢のひと時を楽しみにしている顔です。日常の辛い生活を我慢して、やっとこしらえたお金でここに来たんだろう、そんなことを考えていました。列も進み、後わずかで購入窓口というところで、ふと異変に気付きました。なんと子どもが泣いているではありませんか。あれだけ楽しみに目を輝かせていたのにどうしたのだろう、そう思って聞き耳を立てていると、どうやらお金が少し足りず入場券を買えないようでした。今回は諦めよう、きっとまた来られるから、そうなだめる父親の表情は先ほどまでの凛々しかったものから一変、悔しさと不甲斐なさであふれていました。それでも子どもは泣き止みません、いやだ、ぞうさんを見るんだ、ずっと楽しみにしてたのに——。今までずっと我慢をして、やっと楽しみにしていたサーカスを見られる、その思いが目の前で重い扉に閉ざされたとしたら、どんなに辛いことでしょう。聞き分けのいいはずのない子どもを必死になだめる父親の声はどこか力がありませんでした。私は父にそっと耳打ちをしました。事情を話し、何とかならないか、と。父の反応は意外なほどあっさりでした。ただちにその親子に声をかけたのです。
「お困りのようですね、いくら位足りないのですか?」
父親が驚いた顔をすると、恥ずかしそうに金額を答えました。すると父は黙って財布からその金額を渡しました。
「いいんですか? 本当に申し訳ない。必ず返します、明日の六時に中央公園に来てくれませんか? この御恩は決して忘れません」
父は返さなくていいと言いましたが、父親は必ず返すと言って聞きませんでした。私はその後のサーカスを存分に楽しみました。この景色をあの子も目をらんらんとさせて見ていることだろう、私はまるで胸の奥がくすぐったくなるような気持ちでサーカス会場を後にしたのです。
翌日、私は待ち合わせ場所である公園にいました。手には家にあった昔私が来ていた服と靴。お金は返さなくて結構です、もし良ければこちらをどうぞ、そう言うつもりだったのです。
約束の六時を過ぎても家族は現れませんでした。次第に暮れゆく空を眺めながら、きっと忙しくて手が離せなかったのだろうと思い、私は公園を後にしました。その途中、サーカスの会場の前を通りかかったとき、そこで見た光景に私は目を疑いました。あの親子が再びサーカスの列に並んでいたのです。私の心臓がバクバクと鼓動を打ち始めました。私はその場から動くことができず、その親子をじっと見つめていました。徐々に列が進み、入場券を購入する少し手前で、子どもがぐずり始めました。そしてそれをなだめる父親。お金がない、後少しあれば足りるんだが。セリフも昨日と全く同じでした。そうです、全部嘘だったのです。お金のありそうな人に紛れて同情を買い、金銭を得る、それが彼らの手法だったのです。私はがっくりと肩を落として家に着きました。そしてそのことを父に話しました。すると父からはこんな答えが返ってきたのです。
「だろうな」
父はわかっていたのです。わかっていながらお金を渡したのです。一体どうして——。
「お父さんはね、あの時助けてあげたいといったお前の気持ちが嬉しかったんだ。だからお金を渡したんだ。どうだい、清々しい気持ちになっただろ? それで十分じゃないか。お金は大丈夫、きっとその親子は使うだろう、使えば誰かが喜ぶ。だからお金は生きている、きっとまたいつか返ってくるさ」
お金は生きている、あの時の父の言葉は今もなお私の心の中でずっと、大切な言葉として息づいているのです。
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