第4話

「あーあ。生け捕りが良いと言ったのに、殺しちゃうなんて」


 冴えて来た頭で自身の足元に伏せる、男の姿を見下ろした。

 手応えがまだ残っている。剣の刃先には血が滴っており、彼の身体を貫いたこの凶器は確かに男の命を容易く奪ったのだ。


 ――何も、無抵抗の彼を殺したのではない。

 あの凄惨な死体を見てから筆舌に尽くし難い感情に駆られていた事は認めるが、それでも流石に丸腰の人間を――それも殺すなと念を押されていた者を、私情で手に掛ける程冷静さを欠いていた訳ではなかった。


 単に男が後ろ手に隠し持っていた短刀で襲いに掛かって来たから反撃したのであり、法的にも正当防衛に区分されるべき事柄だろう。


「本当に?」


 自己弁護するような形になった俺の言葉を、ローグは妙に頭の中に纏わりつくような声色と共に、返したのだった。


「例え不意を突かれたとは言え、君なら簡単にいなせると思うんだけどなぁ」

「……買いかぶり過ぎだ。お前も、生け捕りにするのなら相手が武器を隠し持っているかどうかくらい確かめてくれ」

「ああ、実はね。彼が武器を所持していた事には気付いていたんだよ。気付いた上で、知らないフリをしていたんだ」


 さらっと、とんでもない事を口にする彼女に理由を言及しようとするよりも前に、自身の胸元を彼女の白い掌がなぞるようにして触れた。

 

 既にローグの愛用している双剣は、彼女の腰にある鞘に収められている。

 その事実は俺に対する敵意がない事を如実に表しているのに、蠱惑的に俺の――心臓が脈打つ辺りに指を這わせる妙な行為が不気味で仕方なく、口を噤まざるを得なかった。


「ところで、君は人狼ウェアウルフがどんな存在なのか知ってるかい?」

「どんなと言われても。お前の前で言うのもなんだが凶暴で、狡猾で、孤独を好むと言うのが世間の認識じゃないか。お前を見てると、間違っていない気もするが」

「ハハ、酷いね。まぁその通りなんだけど――少し足りないなぁ。その認識の大体は、村に紛れ込んで夜に人を襲う人狼の逸話から来るのだけど、何故彼等は人を食べたのか。夜にのみ、人を襲ったのか。何でだと思う?」


 数十年前までは人狼も魔獣の類に分類され、迫害の対象であったと言う。

 故に一般的な解釈に基けば、人への復讐心。或いは腹を空かせた人狼が人の村を襲い、彼等を食い殺した。夜に襲ったというのも、自身の姿が見られないように夜更けを好んだ、と言った辺りだが――。


 果たしてこの問答に意味はあるのだろうか。

 少なくとも、周囲に死体が放置される中で続けるべきものではないだろうに。この辺りで話を切り上げるべきだと考えた瞬間、突き飛ばされるような感覚と共に自分の身体のバランスが崩れ、転んでしまった。


 洞穴の冷たい地面の上に背中を強打する。新手の敵かと鞘に収めた剣に伸ばした腕は掴まれ、その細さに困惑した。

 疑問を抱きながら目の前を見据える。目と鼻の先には少女の綺麗な顔立ちがあり、認識すると同時に赤い瞳が愉快気に細まるのだった。


「人狼は夜の月を見ると、身が猛るように興奮する性質があるんだ。興奮し、人の血に酔う。今は人の社会に溶け込んだ事によってその性質も鳴りを潜めているけれど、時に抑えきれなくなる。判るかい? 獣人族の血が混じる以上、逃れられないもの――発情期の際には、人狼としての在り方が濃くなるんだ」


 はぁ、と言う艶めかしい吐息が首筋に吹いたと思えば、生暖かく、細いものが粘着質な音を鳴らしながら這う。

 押し倒され、密着する彼女の身体は火照り、薄ら寒い夜の風が流れる洞穴の中だとそれは自身の身を焦がす程の熱さに感じられた。


 流石にじゃれ合いの域を超えていると抵抗するも、彼女の手は俺の腕の骨をへし折るのではないかと不安になる程に強く握り、離さず、逃げられない。


「それじゃあ、なんだ。俺を惨殺でもするつもりか」

「まさか! 殺すつもりはない。ただ、慰みものになってもらおうと、ね。私の火照りが治まるまで。今までは人の血を嗅ぎながら自分を慰めていたが……ああ、君が居てくれて助かったよ。どうだい、死体の前で致すのは。酷く――背徳的だろう」

「ああ。まさかここまで異常だとは、思ってなかったよ」


 彼女が俺の纏う外套に手を掛けると同時に、視界の端で紫色の淡い光が輝き出すのが見える。

 それは掌に刻まれた魔術の刻印が、詠唱という過程を省いて発動される兆しだった。その事に気付いたローグが息を呑んだのが見えたが、もう遅い。


「――拘束魔術バインド


 虚空から暗い色をした鎖が金属音を響かせ、自我を持つかのように蠢き彼女の身体に巻き付いた。

 強制的に行動を制限され、俺の腕を掴んでいた掌もなくなった事により、彼女に組み伏せられていた状態から抜け出す。腕を見てみれば、解放されても尚、執着するようにローグの手の跡が痣となり残っている。


 俺は身を屈めると、鎖で拘束されている彼女と目線を合わせた。先程から妙な事ばかり続いている。その真意を問い質さねばならない。


「アハ、殺さないのかい。残念だなぁ」

「……妙なんだよ、思えば。写真の男が武器を隠し持っていたのに、それを見逃したり。加えて単なる力比べじゃあ俺はお前に負けるかもしれないけど、魔術の前では腕力なんてものは無力だ。本当に俺を組み伏せるつもりなら、俺の喉を裂いて両手を切断するくらいの事をしないとならないのに。何がしたいんだ、一体」

 

「――何をしたいのか、だって?」


 ぞっとするような声色が、洞穴の中を反響する。

 仄暗く、歓喜の色が混ざり合ったような声だった。魔王を前にした時とは異なる種類の恐怖を覚える。刹那、あの妄信的な瞳がこちらを見据えて来た。


「判り切った事じゃないか! 私は君を、堕としたいんだ。血に酔い、狂気的な感情を孕ませた瞳が見たい。出会った当初こそ君を偽善者だと形容していたが、君は見事魔王を倒し、偉業を果たし、あの旅を終わらせて見せた。私のような根無し草にはその事実が、酷く眩しく見えた」

「羨んださ。けれど同時に、私の中にある興味が生まれた。君が落ちぶれ、人を憎むようになったら、どんな顔を見せてくれるのか。意外にも国は君を排斥したようだが、それでも君は人に不信を覚える事はあれど憎む事はなかった。だから私は、君の心に傷を付けるであろうこの仕事に、君を誘ったんだ。その末に私を殺そうとも関係ない。私が死んだ事で君の人格に罅が入ったらと思うとぞくぞくするね!」


 それは酷く身勝手で、信じ難い真実だった。

 好ましいと思っていた者が、今では数少ないとさえ言える友人が自分に抱いていた感情は薄気味の悪い執着心で、善意の元紹介してくれたのだと解釈していた仕事は、自分を陥れようと画策する私欲から来るものだったのだ。


 へばり付くような彼女の感情に晒され、思わず吐き気を覚える。

 嘔吐いた俺を、彼女は愛おしそうに眺めていた。


 ***

 

「――遅い帰りだな。今まで、何をしていた」

「……仕事だよ。置手紙を残しておいただろう」


 既に夜も更けた時間帯だ。

 なのにパトリオットは俺の帰りを起きて待っていたようで、玄関をくぐると怒りを孕んだ声音と共に出迎えられた。


 正直に言うと、面倒臭い。

 帰ったらすぐに寝たかったと言うのが自分の本音だったけど、この状態のパトリオットを放置して寝床に潜るのは流石に気が引けたのだ。


「何故私の許可なく、勝手な事をした? 急に仕事をすると言われたら驚くだろう」

「いや、その……流石に、俺も何かしないといけないと、思って」

「必要ない。そのような負い目は感じなくて良いと言った筈だが」

「でも――」


 彼女の声音に、段々と怒りが蓄積されていっているのは判っていた。故に、言葉を探し、それでいて真実を語っていたつもりだったが。

 何かの割れるような音が突然鳴り響き、身を竦めてしまう。音のした方を反射的に向くと、ガラス製のコップが床に叩き付けられ、破片を周囲に撒き散らしているのが見えた。


「言い訳は必要ない! 働く必要はないんだ、養われていることに負い目を感じる必要もない、全ては私が世話をしてやると言ってるのに、何故お前は私から離れて、行くんだ。お前が帰って来ないこの間、私がどれだけ不安だったか、知らないだろう」


 落ち着いて辺りを見回すと、床にはガラス片の他に様々なものが散らばっていた。

 枕の羽毛に、投げ飛ばされたような本の形。帰ったばかりで、且つローグの告白が胸中にへばり付いて離れなかったからかその事ばかりに気を取られ、部屋の惨状に気付くのが遅れたのだった。


 几帳面な彼女だからこそ、現状が異常である事がありありと判った。

 何故だか不安に駆られる事ばかりが起こる。魔王を討伐したと言うのに、こんな事ばかりだ――。世界は平和になったと言うのに、俺はどんどん落ちぶれていく。


 その日暮らしの毎日。それが終わったかと思えば旧友の厚意に甘んじて家に居候させて貰い、その情けなさに嫌気が差したから仕事をしたら見たくないものを見、聞きたくないものを聞いた。

 気分を沈ませながら帰ったかと思えば、家の主に詰問されている。昔の俺が見たら笑うだろうか、泣くだろうか。


「聞いているのか!!」

「――っ」


 頬に衝撃。ひり付くような痛みに目の前を見据えれば、彼女が手を出したというのが判った。

 おそらく俺が思考に耽り、彼女の言葉にも話半分で返していたのが気に食わなかったのだろう。


 何も殴る事はないだろう。流石に反論しようと言葉を返そうとするが、目の前の彼女は殴った自身の掌を見詰めると、気丈な顔立ちが崩れていき、瞬間俺の身体を華奢な二本の腕で抱き寄せるのだった。


「あ――。すまない、すまない。手を出すつもりはなかったんだ。ただ、お前が……貴方が、私の話を聞かない事に、腹を立てて。ああ、ごめんなさい。帰って来た貴方の顔、酷く落ち込んでいるように見えて、まずは慰めないといけないのに……私、何をしているんでしょう」


 震えた声で言葉を絞り出す彼女が、別の生き物に思えた。

 躁鬱の気でもあるのか、先程から気分の浮き沈みが激しい。何か声を掛けるべきなのだろうが――もう、疲れた。


 自分に異常な執着心を見せるローグも、先程から不安定な彼女も、約束を反故にした王族も、世論に振り回される国民も、魔王を倒してから世界の全てが異常に見える。

 何が正常なのか、判らない。俺は自身の身体を抱き締め不安定に泣きじゃくるパトリオットの胸元で、そっと目を閉じた。

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