二章 消えてしまった居場所⑩



 顔を上げると、吸い込まれそうなほどまっすぐな黒い瞳が私を映していた。


「愚痴る相手。話したくなったらなんでも話せばいいじゃん」


 皐月くんが少し柔らかな表情で言うと、すぐに鋭い視線を私の隣のラムさんに向ける。

 からかわれることを警戒しているようだ。

 案の定にたにたと笑っているラムさんは「甘酸っぱいねぇ」と言いながら頬杖をついて、グラスに入ったお酒を喉に流していく。

 悩みごとを言える相手がいない私には、悩みごとを打ち明けてくれる相手もいなかった。今となっては、それがさらに私の心を凍らせた原因だった気がする。

 自分はどんな人間になりたかったのか、そしてなにを望んでいたのかが、冷静になって少しずつ見えてきた。


「……私は、ずっと、誰かの特別になりたかったんだ」


 親友と呼ばれる人が羨ましかった。大事にされて、好きだと思ってもらえる存在になってみたかった。自分の気持ちを曝け出すのが怖くなってしまった私は、周りと壁をつくってしまって、本音で話すことを避けていた。けれど本当はありのままの姿で好かれている人に憧れていた。

 誰かに好かれたい。誰かに必要とされたい。いなくならないで。ここにいてと言われるような私になりたかった。


「じゃあ、まずはショーコちゃんにとって特別な人ができるといいね」


 マスターは目尻にしわを寄せて目を細める。


「……私にとって、特別な人?」


 濡れたグラスをフキンで拭いているマスターの左手の薬指が、一部分だけ白い。おそらくそれは、指輪の痕なのだと思う。


「その人を大事にすることで、ショーコちゃんがその人にとって特別な存在になるんじゃないかな」


 グラスを拭き終わったマスターが、左手の薬指を右手でさすりながら悲しげに眉を下げて、声のトーンを僅かに落とした。


「……マスターにも特別な人がいたの?」

「もう随分と昔の話だけどね。特別な人ができると、大事にしたい、されたいと思うものだよ。そうやって傷つけて傷つけられて、人との関わりを学んでいくんだよ」


 私は傷つけることも傷つけられることも恐れて、人と関わることを躊躇っていた。過去に友達を傷つけたときだって、もっと言い方に気をつけるべきだったのだ。


「だからね、ショーコちゃん。自分のことを知ってもらうためにも、相手を知るためにも話すことは必要なことだよ」


 きっとマスターも、皐月くんも黒さんも、明るくて楽しげなラムさんにだって悩みや苦しんでいることがある。それは他人が簡単に土足で踏み込んでいいものじゃない。

 だからこそ、本人からのSOSが必要なのかもしれない。

 私は今まで誰かのSOSに見て見ぬふりをしてきた。そして、自分でもSOSを出すことを躊躇って耐えていた。

 でも、ずっと耐え続けることは難しい。どこかで吐き出さないと壊れてしまう。

 だから私はこの世界から溶けてなくなりたかった。

 ……人と向き合うことから逃げていたんだ。


「――っ!」


 突然、意識がぐっと引っ張られるように儚く澄んだ歌声が店内に響いた。

 黒さんが、目を閉じて伸びやかに歌っていた。突然のことに言葉を失い、その歌声に耳を傾ける。

 英語の歌詞の聴いたことのない曲だったけれど、その歌声に不思議と心が惹きつけられた。

 この空間一帯が、まるで黒さんのステージのようだ。

 胸のあたりが、ぎゅっと切なく収縮する。寄り添ってくれるような優しくて柔らかな透き通った歌声に、目頭が熱くなってくる。

 私は零れ落ちそうになる涙を必死に堪えて、下唇を噛みしめた。


「ご静聴ありがとうございました」


 歌い終わった黒さんが口角をにぃっと上げて、こちらに首を傾けた。


「私の好きな曲なの。歌詞には大切な人への想いが込められているのよ」


 黒さんから紡がれる歌はとても温かくて、こんな風に聴き入ったのは初めてだった。


「……いきなり歌い出すからびっくりした。けど、やっぱり黒さんの歌声ってすごい」


 皐月くんの声がいつもよりも弾んでいるように聞こえる。

 やっぱりということは、前にも歌ったことがあるのだろうか。


「ショーコちゃんがどんどん暗い表情になっていくから、少しでも気が紛れるといいなと思って」

「え……私のため?」


 あんなに素敵な歌を私のために聞かせてくれた……。そう思うと嬉しくて、胸に心地よい熱がじんわりと広がっていく。


「びっくりさせちゃったわよね。ごめんね」

「そ、そんなことないっ!」


 思ったよりも大きな声が出てしまった。けれど、伝えたい。私が嬉しいって思ったこと、胸がこんなに熱くなるくらい感動したんだってこと、ちゃんと本人に伝わってほしい。


「嬉しかった! すごく……っ、綺麗で優しくって、なんていうかいい言葉が思いつかないけど……でも本当に感動して、ここまで聴き入った歌声は初めてだった!」


 溢れ出てくる感情をあますところなく伝えたいのに、思ったことの半分以下しか伝えられていない気がしてもどかしい。もっとうまく伝えられたらいいのに。この感情すべてを言葉として紡ぐ術がなくて歯がゆくなる。


「ショーコちゃん」


 黒さんが立ち上がり、私の元へ歩み寄ってくると、両手を広げて包み込むように抱きしめた。突然のことに頭がついていかず、瞬きを繰り返す。


「え……く、黒さん?」

「ありがとう」

「えっと……」

「すごく嬉しいわ。そんな風に言ってくれてありがとう。私、不器用で優しいショーコちゃんが大好きよ」


 うまく伝えられていないと思っていた。けれど、黒さんの声音から喜んでくれていることがわかり、私の思いが伝わったのだと感じた。それが嬉しくて、鼻の奥がツンと痛くなって視界が歪む。


「なーに、泣いてんだよ。ショーコ」


 抱きしめてくれている黒さんには見えていないけれど、ラムさんからは私の顔が丸見えで、ポロポロと涙を流している私を見て笑っている。

 私が泣くのは変だ。そう思うのに、何故だか止まらない。


 言葉にならない泣き声を上げながら、とめどなく涙が零れ落ちていく。固まっていた自分の心が、少しずつ溶かされていく気がした。ほしかった優しさがここに確かに存在していて、それを取り零さないようにしようと黒さんを抱きしめる力を強めた。

 時間はあっというまに過ぎていき、名残惜しいけれど今日も帰らなくてはいけない時間になってしまった。

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