二章 消えてしまった居場所⑥
あの言葉が、不意に私の折れそうな心に歯止めをかける。
私は坂を駆け上がり〝あの場所〟の前にたどり着いた。かなり心が不安定な状態で、ここに入ってもいいのかと躊躇いがある。だけど、来てしまった。
誰かに聞いてもらえれば、もしかしたらこの醜い感情も少しはマシになるかもしれない。
学校の人にも家の人にも話せないけれど、この喫茶店の人たちならば、自分の中にずっと溜め込んでいた言葉を口に出せる気がした。
ダークブラウンの扉には、〝open 〟と書いてあるプレートがかけられていて、営業中のようだった。あの人たちは今日もここにいるだろうか。それとも、別のお客様がいるかもしれない。もしものことを考えて怖気づき、伸ばした手を引っ込める。
ここに来てしまった以上は扉を開きたい。このまま引き返して一人でいたら、心が溺没してしまいそうだった。
おそるおそる扉を開けると、扉の内側の上部に取りつけられたベルが乾いた音を鳴らす。風なんて吹いていないはずなのに、扉を開けた瞬間珈琲の香ばしい匂いが全身を包み、鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
マスターの優しい声音に視線を上げると、 橙 色に包まれたあの空間に、昨日と同じ顔ぶれが揃っていた。私は不安から解放され、ほっと胸を撫で下ろす。少し鼻の奥がツンと痛んで、泣きそうになった。そんな自分に戸惑いを覚える。
「また来たのかー! 暇だねぇ、ショーコ」
ラムさんが私の名前を覚えてくれていたことが嬉しくて、口元が緩みかけた。
「こ、こんにちは!」
「ショーコちゃん、いらっしゃい」
ラムさんの隣に座っている黒さんが、身体を後ろに傾けて、顔を覗かせた。にっこりと微笑みながら軽く手を振ってくれて、私はぎこちなく頭を下げる。
「……座ったら」
皐月くんからは特に挨拶はなかったけれど、短いその言葉が私を受け入れてくれているように感じた。
昨日と同じカウンターの丸椅子に座る。隣にはおそらくまたお酒を飲んでいるラムさん。片手でグラスを持ちながら、カラコロと涼しげな音を響かせて丸い氷とお酒を回している。華奢な指に塗られたネイルが艶やかな光沢を放っていて、つい見惚れてしまう。
「ったく、ショーコは今日もくっらいなー!」
ラムさんが弾むような元気な声で言い放ち、私の肩を軽く叩いてきた。そう言うラムさんは今日も明るいなと思いながら視線を上げると、カウンターの向こう側にいる皐月くんと目が合った。
「なんで来たの」
「……っ」
「皐月くん」
窘めるように彼の名前を呼んだ黒さんを、ラムさんが「静かに」と言って止めた。それっ きりマスターも、黒さんもラムさんもなにも言葉を発しない。
私の言葉を待ってくれているのだ。
そして、皐月くんのなんで来たのかという問いは、意地悪からじゃないということを、私だけじゃなくて、他の人たちも気づいているのではないかと思う。
なんで来たのか。
その答えは、わかりきっていた。だけど、言葉を溜め込んで腐らせてきた私にとって、吐き出すことは容易ではない。
話すのが嫌なわけではなくて、最初の一言がなかなか出てこないのだ。
こんなに情けなくて、うじうじした人間なのかと改めて自覚する。私が皐月くんたち側にいたら、早く言えってイライラしてしまったかもしれない。それなのに彼らは文句も言わずに待ってくれている。
急かさずにいてくれることは、なんて幸せなことなのだろう。
きっとここの人たちは無視なんてしない。私をいないもののように扱わない。
「……ゆっくりでいいよ」
皐月くんの言葉に、ここにいていいのだと感じて少しだけ心が軽くなる。 自分の思いを話そう。はじめの言葉は、なんて言えばいいのだろうか。
ぎゅっと固く目を瞑り、震える唇を微かに動かす。
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