第4話 ある朝、新たな出会いに震える①
一人残された食堂で、私は呆然とヴェンディの去っていった扉を見つめていた。
朝、ナナカにちゃんと結い上げてもらった髪は乱れてぼさぼさだし、高そうな生地のスカートはくしゃくしゃに皴がついてしまった。
唇のはじに手をやると、どちらのものかわからない唾液の跡が指先に触れる。
途端に自分のやったことが恥ずかしくなり、私はぐいっと口回りを袖で拭った。
――求めてしまっていた。
翻弄されるままだった前回とは違う。明らかに自分から彼のものを求めて口の中をまさぐっていた。
そのあとのことまで期待して。
「ぐああああああああああ!」
喉の奥から野太い悲鳴(?)を上げ、頭を掻きむしってその場に突っ伏した。スカートの皴? 乱れた髪? ブラウスの汚れ? んなもん気にする余裕なんてない。
やばいやばいやばい。こんな自分は知らない。
期待したその先のことだって、知識はあれども経験なんてまるでない。このあとどうなるか、何をされるのかなんて想像しただけで頭が沸騰しそうだった。
でもいくら頭を掻きむしっても床をごろごろと転がっても、目の前に迫るドアップのヴェンディと、その熱を帯びた赤い瞳が脳裏から離れない。やわらかい唇の感触も、熱いくちづけも、太ももに這わされた手のひらの愛撫も。
ひとしきり悶えると、もともと体力のない私はぱたりと力尽きて倒れこんだ。
大きく、数回深呼吸をして上がった息を整える。ごろりと寝返りをうつと、視界いっぱいにきらびやかな食堂の天井が広がった。
いくら財政難といえど魔王城は大きく立派だった。領地は広いし抱える人員も多く、そのすべてがあの魔王の配下である。
今朝の料理を食べた後に、領地への公布を思いついたヴェンディの表情は為政者のものだ。多分。日本でも為政者なんて人に会ったことは無いけど、きっとああいったものなんだろうと想像ができた。
そんな彼に認められ、求愛されることは、気恥ずかしいところが大きいけれど決してイヤではない。むしろ、ほんの少し誇らしい気持ちがあるのは確かだった。
いや、訂正する。
どんなもんだ、という誇らしさと自尊心が溢れてくる。このとびっきりの外見によるブーストもあるだろうけど、さっき私の仕事(料理のレシピ開発が仕事と言っていいかどうかわからないけど)を認めてくれたし。
と思うと同時に、仕事に対する責任感もわきあがる。そうだ。さっきヴェンディも落ち着いたら来いと言っていたじゃないか。ベッド云々はこの際明後日の方向へ放り投げておこう。
「こんなことしてる暇、ないってか……」
辺境から騎士団長がわざわざ来るってことは、何か一大事なのかもしれない。ということは、お金が大きく動く可能性もあるしヴェンディの仕事の一大事だ。
あの鷹揚な魔王が変な勢いでお金を使う指令を出す前に行かなくちゃ。
私は勢いよく体を起こした。乱れきった髪はいっそのことと下ろし、手櫛で一つに束ねた。ブラウスやスカートはパンパンとほこりを払ってさっと整える。
そして食堂の扉を開けてヴェンディの執務室へと急いだのだった。
★ ★ ★
ヴェンディは配下の謁見を可能な限り許可して大勢に会い言葉を交わす。その際は城中央の大きな広間――謁見の間で行うこともあるが、そこはあんまりにも広すぎて何かの式典や一軍団ごとに謁見するときとかしか使えない。ほとんどの場合、彼が普段仕事をする執務室で行う。
執務室は謁見の間の真裏の部屋に当たり、正面の扉の他は謁見の間からも出入りができる造りとなっている。
既に来客中とのことだからと判断し、私はこの謁見の間から執務室へと続く扉を開けた。
その瞬間、長い黒髪の女性が執務椅子に座るヴェンディに抱き着いている場面に出くわしてしまったのだった。
「ヴェンさまぁ、寂しゅうございましたぁ……」
「それは悪いことをしたね、クロ―ディア。なにせちょっと最近忙しくてね」
「今夜はおそばにはべらせてくださいませね」
甘ったるい香水のにおいが鼻にまとわりつく。砂糖とふりかけ語尾にハートマークのトッピングをいくつもちりばめたような声で女性はヴェンディにしなだれかかっていた。 彼女の腰には彼のスーツにくるまれた腕が絡まり密着している。二人は扉を開けた私には気づいていないようだった。
ちらりと見えた横顔は、氷のように整っているダークエルフのそれで、ドレス越しにもわかる豊満な体つきがえろい。えろすぎる。フェロモンが駄々洩れして、執務室がむせ返りそうだ。
「お客様にお茶でもお持ちしましょうか?」
充満する香水とフェロモン、そして目の前に広がる光景に耐え切れず私はヴェンディの肩をたたいた。
ぎょっとしたように目を見開く彼と視線が合う。まさか裏から来ると思っていなかったのか、若干ばつの悪い表情を浮かべてヴェンディは女性を膝から降ろした。
「ヴェンさまぁ?」
不服そうな声を上げた彼女は私に気が付くと、艶然とした微笑みをよこす。キリっと引いた真っ赤な口紅がとてもよく似合う、迫力美人だ。魔王の隣にいても遜色のない、いや、むしろお似合いな妖艶さが漂っている。
負けてなるかと私も微笑み返すが、ちくちくとした胸の痛みはぬぐえなかった。
「新しい侍女? の割に良い服着てるわね。この方は?」
「先日雇った私のセクレタリさ、クロ―ディア。さて、まずは仕事の話をさせておくれ。クローゼも、立ち話もなんだしそこにかけてくれないか」
まだ何か言いたそうなクロ―ディアという女性の追及を制し、ヴェンディは入口近くでたたずんでいる一人の男性に声をかけた。ちょっと呆れたような、あきらめたような、不思議な表情をしているその彼が勧められるままソファに腰を下ろすと、クロ―ディアもその隣へひらりとおさまる。
並ぶとわかった。よく似た二人だ。
「妹が大変なご無礼を、閣下」
丁寧に頭を下げるクローゼと呼ばれた男性の隣で、クロ―ディアはぷいっと顔をそむける。長い耳からのぞいた大きな石の付いたイヤリングが揺れた。
「いやいや、こちらこそしばらく二人には会えていなかったから、気にすることはないよ」
「ご厚情、いたみ入ります」
「さて、と」
リナ、とヴェンディが私を振り返る。さっきのばつの悪い表情はどこへやら。食堂で見せた熱っぽい視線もすっかり彼方へ放り投げてしまったかのような、仕事モードの顔だ。
これでは怒るに怒れない。むしろ気持ちを切り替えろと言外に指示されているようで、私は会釈で応えた。
「悪いがお茶の準備を。彼ら二人と、私と君の分だ」
「かしこまりました」
「その方も同席を?」
クローゼが不審そうな声を上げた。そりゃそうだ。初対面だし。
「彼女は私の信頼するセクレタリだよ。この城の財政問題の担当でもあるし、今後のためにも同席させたいと思ってる」
「分かりました……」
しぶしぶ同意するクローゼの隣ではクロ―ディアがあからさまに嫌そうな表情を浮かべていた。しかし主の決定には表立って逆らうつもりがないのか反論はない。であれば、と私は部屋の隅に置かれた茶器を出し四人分のお茶を淹れた。
「で、どういった話だい? 君がわざわざ来るなんてよほどのことだろう」
「実は――」
テーブルにカップを並べお互いに口を湿らせたところでクローゼが語りだしたことは、魔王ヴェンディの領地における一大事が起こる予兆の話だった……。
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