時計の針とアンセム

春嵐

夢のような時間

 時計の針。

 ゆっくり、進む。 それを、見ていた。


 夢。


 たぶんこれは、夢。なんで目の前に時計があって、それを私は見ているのか。


 なんか、時計に関連する強い記憶があったのかな。何も思い出せないや。これは記憶がないほうの夢だ。自分の姿も名前も、ぜんぜん思い出せない。


 時計の針。

 23時、54分。


 零時になったら、何か起こるとかなのかな。じっと、待った。針が動いて、一周して、また戻る。


 零時。


 回りを見渡す。寝てる状態なのに首は回る。夢だからか。


「何も起こんないじゃん」


 時計を見るだけの夢か。退屈だわ。


 そこで、起きた。


 真っ暗。


 寝ぼけた時間が数秒。

 そして。思い出した。名前と顔。そして、零時。


「しまったっ」


 零時からチャンピオンズリーグ決勝じゃん。


 急いでベッドから飛び起きる。


「うわたちくらみ」


 しまった。そういえば買い物の帰りに血けっこう出したんだっけか。


 しゃがんで、たちくらみが収まるのをじっと待った。血が、ゆっくり、頭に回っていく。


「うおっし」


 部屋のリビング。すでに彼はスタンバっていた。美味しそうな料理まで見える。


「作ったの?」


「うん。クラッカーとパスタだけね。何飲む?」


「コーラ。買ってきたやつ」


「分かった」


「おっと、冷蔵庫にはないわよ」


 隠してあるからね。指輪と一緒に。


「そうなの。どこに?」


「いいから。私出すから。座って待ってて」


「うん。ありがとう。でももうすぐ始まるよ?」


「うおっ」


 はやく探さないと。


 彼に指輪を渡す。チャンピオンズリーグの開始のアンセムのときに、そっと机に出しておくんだ。そのための、買い物だった。インターネットで血を捧げると云々みたいなのも見たので、ついでに献血もしてきた。すべては、今日の日のために。


 コーラ。お菓子。あと、指輪。


「へへ」


 彼も、まさかお菓子の入ったレジ袋のなかに指輪が入ってるとは思うまい。エンゲージリングだから安物だけど。


 レジ袋をそのまま持ってリビングに戻った。


「はい。これがコーラで、これが、お菓子」


「ありがとう」


 彼はやさしい。コーラを渡すと、ひとりでに二人分のコップと氷を準備してそれに注いでくれる。


 しかし、やさしさが仇となってなかなか同棲以上に踏み切れていなかった。ここは私が、勇気を出すところ。やさしい彼を、エスコートするんだ。私が。


「はい」


「ありがとう。へへ」


 にやけながらコーラを一気に飲む。


「うっごほっごほっ」


 むせた。


「大丈夫。喉乾いてたんだね」


 彼がわたしの背中をさする。やはりやさしい。

 そして座ると、コップにはコーラの二杯目が注がれている。気付かれないように、彼の少し後ろに陣取った。


 そして始まる、アンセム。そのときが来た。


 口に出す勇気はない。だから、彼がアンセムに気を取られているうちに、指輪を机に置く。アンセムが終わって机を見た彼が、箱について訊く。開けてみてって言う。箱を開けると指輪が入っている。これからもよろしくおねがいしますって言う。そして、チャンピオンズリーグが始まる。これがわたしの計画。


 そして彼は、流れ始めたアンセムを見た。


 よし。

 ここだ。

 机に素早く、そして気付かれないように、箱を、置いた。よしっ。置けた。大丈夫。八割方成功したようなもんだ。今夜は彼とはじめての夜を。


「ねえ」


 彼。アンセムを見ながら、私に声をかけてきた。


「うん?」


「俺さ、このまま、ここにいていいのかな」


「え?」


「君はたぶんもう分かってると思うけど、俺、いろんなところでさ、勇気がないんだよね」


「勇気?」


 やさしいだけだと思うけど。ついさっきも、むせてるわたしの背中をさすってくれた。


「君と一緒にいられる、勇気がない」


「えっ」


「ほんとはね、今日、チャンピオンズリーグが始まる前に、君に勇気を出して、告白、しようと思ったんだ」


 まじか。あぶねえ。私と同タイミングじゃん。


「でもね。できなかった。指輪も、断られるのがこわくて、買えなかった」


 アンセム。鳴り響く。


「こんな、告白もできなくて、ただ君の隣にいるだけの俺に、君と、一緒にいる資格なんて、あるのかなって」


「ふうん」


「だから。君が、もし、いやだったら、このチャンピオンズリーグのあとに。別れてほしい。俺が出ていく」


「へえ」


「でも、どうか、チャンピオンズリーグは、一緒に、見て、くれないかな。君と一緒に楽しむチャンピオンズリーグが、その、俺のなかで、いちばんだから」


「はいはい」


「だめ、かな。ごめんね。チャンピオンズリーグ前にこんな話をして」


「うん。話はだいたい分かった」


 アンセム。遂に終わった。

 拍手の渦。

 実況と解説が見どころを紹介して、そして、選手が散らばる。


「ねえ。私を見て」


「ごめん。君の答えがこわくて、君のほうを見るのが、こわい」


「じゃあ、私を見なくていいわ。かわりに、机を見て」


「机?」


 彼が机を見る。そして、箱を発見した。


「その箱を開けてください」


 実況と解説の見どころ紹介が、終わった。

 そして、カウントダウン。


 時計の針の夢。これのことを指してたのかもしれない。


 彼が、箱を、開ける。


「これがわたしの答えです」


 彼の背中。小刻みに震えている。


「あなたはやさしい。やさしすぎる。そのうえ勇気を出すのは、人として無理なことです。勇気はわたしが出します」


 その背中に、ゆっくり、張り付く。カウントダウン。そのときが近付く。


「結婚してくださいって言おうと思ったけど、やめます」


 今日。この日。チャンピオンズリーグと一緒に。


「わたしのそばにいてください。ずっと。わたしも、あなたのそばに、ずっといたいです」


「うん」


「大丈夫。こたえはきいてないから。わたしが、そうしてほしいんだから。泣かなくて大丈夫」


「うん」


 彼。泣いてる。


「ほら。試合はじまったよ。見よ?」


「うん。俺も、ずっと」


 試合と一緒に、わたしたちの、日々がはじまる。

 これまで通りだけど、これまでよりも、ほんのちょっとだけ、前に進んだ、わたしたちの。

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