八坂神社


 私たちは八坂神社の能舞台の前。ちょっとした人だかりの中に居た。


「なんか、気持ち悪くなってきた」

「なんで!?」


 さっきより青白くなった絵里加の顔に、驚きが隠せない。

 屋台で食べたのは鶏皮餃子のみ。しかも一カップを半分ずつに分けて食べた。お昼に惣菜も食べたが、胸焼けを起こしたなんてことはないだろう。お腹が減ったわけでもなし。鶏皮餃子を食べてから、一時間も経っていないのだから。

 気持ち悪そうに下を向く、絵里加を横に、私は空を見あげた。


「雲がかかってきたね」


 今朝の予報通り、晴天とはほど遠い空模様に神楽開演を不安に思った。横では絵里加が胃を押さえながら咳き込んでいた。なにやら呻き声も聞こえる。


「ああ、低気圧か」


 なにか言った? と絵里加を見やれば、今度ははっきりとそう口にして、絵里加はまたえずいた。


「平気? 移動する? どっか座る?」

「いや、今移動すると、見れなくなりそうだから」


 えずきながらも動こうとしない絵里加は、神楽を見たくて仕方がないらしい。私もそうだけど。でも、果たして絵里加は最後まで立っていることができるのだろうか。それだけが心配だった。とにもかくにも、気持ちの悪さより神楽の楽しみを優先させた絵里加の意気込みに、私は見守ることしかできない。

 開演が近づくにつれて、待機する人が増えてきた。後ろを振り返れば、動かないことを選択した絵里加に感謝したくなるほど、私たちが前の方を陣取っていることが分かった。絵里加はまだえずいてるけど。


「今、何分?」

「そろそろ始まるよ」


 まだそんな雰囲気はないけど。なんて思いながら、励ますつもりで口にする。胸をさすりながらなんとか立っている絵里加を横目に、私は空を睨んだ。どうにか晴れて欲しいと願う。

 お囃子が、聞こえてきた。私たちは顔を見合わせ、二人してキラキラした目を、舞台に向けた。

 和装の男性が出てきて、白い衣装の女性も出てきた。二人はお囃子に合わせて舞い、舞台上で世界観が広がり始める。和楽器の演奏は私を別世界に誘い、大蛇は私をその世界に釘付けにした。言葉は何一つ入ってこないのに、目の前で繰り広げられる舞いは物語の顛末を知らせる。

 沸き立つ気持ちを冷ますように、ポツポツと額に雨が当たった。雨は徐々にリズムを早くして、お囃子に雑音を混ぜる。雨雲は私たちを暗がりで覆い、舞台の光を鮮明にした。視界では一つ二つと傘が広がりはじめ、鮮明になった世界と私の距離を埋め尽くそうとしている。


「見えなくなってきたね」

「雨ひどくなっていたもんね。傘さす?」


 私は後ろを振り返り、観客が大勢いることを確認する。


「ううん。見えなくなっちゃうから。邪魔になるし」

「そうだね」


 雨に濡れて冷えはじめた体を、さする。傘の合間を縫って、なんとか舞台の一瞬一瞬を目に納める。視界が限られてきたせいで、横にいた人たちに押される。でも絶対譲らないという意思を込めて、抗った。死守した視界で、なんとか神楽を楽しむ。押しつ押されつ。雨はさらに激しさを増していった。

 ふいに肩を叩かれて、振り向く。


「これズボンやけど、使い」


 そう言って斜め後ろにいたおじさんに渡されたのは、透明なカッパのズボンだった。カッパを着たおじさんは、受けとることを急かしてきた。戸惑ったまま、私はカッパを受けとる。

 私は絵里加にそれを知らせ、二人でカッパを被った。まるで布で顔を隠す舞台の上の女性のように。


「すみません」

「ありがとうございます」


 親切なおじさんにお礼して、私たちは再び神楽を見やった。視界が定まれば雨も傘も気にならなくなって、途端に舞台に夢中になった。恵比寿さんが鯉を釣り上げたり、大蛇が成敗されるその様に、徐々に雨が上がっていく。

 舞台が佳境を過ぎる頃には、宵闇の中で照らされる舞台が、視界いっぱいに広がっていた。


「前にもこういう事があったんです。降り始めた雨が、舞台が終わる頃にはやんで。その度にこれが神楽の力かと、奉納が届いたのかと、不思議でありがたい気持ちになります」


 座長の挨拶を聞きながら、私は空を見上げた。さっきまで雨を降らせていた雲の隙間から、夜空がのぞいていた。

 座長の挨拶が終わり、拍手喝采で神楽は幕を閉じた。私は畳んで持っていたカッパを片手に、後ろを振り返る。


「ありがとうございました」

「風邪引かんようにな」


 お礼して頭を下げると、泥だらけになった靴が目に入った。

 おじさんが帰っていくのを見ながら、私たちは汚れた靴を笑った。


「次は、カッパを持ってこようね」

「痛み止も持ってくるよ」

「そういや、気分はどう?」

「雨降ったらどっか飛んでった」

「そういうもんなの!?」

「そういうもんでしょ」


 私たちは濡れた服が乾くのを待って、家路についた。

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