~大阪府貝塚市~ 真夜中の石才駅

無月弟(無月蒼)

大阪府貝塚市

 来週から、大阪に行ってくれ。最初上司にそう言われた時は、冗談かと思った。


 いやいや、だってさあ。これが出張だって言うならまだ分かるよ。

 だけど言い渡されたのは、出張じゃなくて転勤。九州の片隅でひっそりと働いていた田舎娘のアタシが、いきなり行った事もない大阪なんて大都会に住めと? しかも来週から? アナタは本気で言っているのですか?


 まあそんな風に上司の正気を疑ったり、目が覚めるかなと思って自分の頬を思いっきり引っ叩いてみたりしたけど、結果は何も変わらず。

 それから引っ越しまでの間、荷物をまとめたり、役所に行って手続きをしたり、それでいていつも通り仕事はしなくちゃいけなかったりと、とにかく大変だった。

 今まで生きてきた二十四年の間に、これだけ慌しかったことはなかったんじゃないかって思うくらいに。


 そうして年の瀬迫る師走に入ったその日、アタシは住み慣れた田舎を離れて、見知らぬ都会へと引っ越していったのだった。

 ああ、ちゃんとやっていけるかどうか、不安だなあ。冬の北風が体だけじゃなくて、心までカチコチに冷やしてくよ。



 そんなこんなで、やって来たのは大阪の南部にある、貝塚市という街。

 アタシは今回転勤するにあたって、初めてこの市の名前を知って、どんな所なのだろうとドキドキしていたけど。いやー、聞いてた話と全然違うなあ。


 上司が言うには、大阪といっても中心部からは離れていて、比較的田舎だって話だったけど、嘘つき―! 人も車も、前に住んでいたところよりも全然多くて、高い建物だってたくさんあるじゃないかー!


 で、そんな都会の風景に圧倒されながら、やって来たのは、アパートの一室。

 会社が提供してくれた部屋で、今日からここで暮らしていくわけなんだけど……狭っ!


 そこは以前に住んでいたアパートの半分、ううん、それ以下の広さしかなかった。

 どうしよう、持ってきた荷物、全部入るかなあ? あ、しかもここ、お風呂とトイレが一緒になってるじゃない。前に住んでいた所では、別々になっていたのに。おまけに家賃は、以前の倍くらいするし、もう最悪。

 分かってた、分かってたよ。田舎と都会では、家賃事情が全く異なるって。だけどいざこうして現実を突きつけられると、辛いなー。


 まあとりあえず、だ。嘆いていても仕方が無いし、まずは引っ越し業者に荷物を運んでもらうとしよう。


 何とか全部部屋に入れることはできたけど、案の定中はいっぱいになっちゃって、座るスペースを確保するのがやっと。

 仕方がない、少しずつ片付けていくしかないか。あ、でもその前に。


 無造作に置かれた荷物の間を抜けて、ベランダに出てみる。


 アパートの五階にあるこの部屋からは、街並みがよく見えた。冷たい風が吹きつけてきたけど、我慢してジッと周囲を眺めて見た。


 うーん、山が見えないなあ。

 前に住んでいた所では、右を見れば山、左を見ても山、南にも北にも山があって、360度山、山、山だったのに、ここからはちっとも見ることができない。

 それがどうしたって言う人もいるだろうけど、当たり前のようにあった物が無くなるのって、思った以上に落ち着かないんだよね。

 来て早々、ホームシックになっちゃいそう。あーあ、こんなんでこれから、ちゃんとやっていけるのかなあ?


 カンカンカンカンカンカン――!


 センチメンタルな気分に浸っていると、突然踏切の音が聞こえてきた。

 ああ、そういえばこのアパートのすぐ横に、駅があったんだっけ。


 手すりから頭を突き出して下を見ると、線路と駅があって、ホームの様子を見ることができた。


 あー、ホームにはやっぱり、たくさんの人がいるなあ。前に住んでいた所の最寄り駅は、一日に数人しか利用者のいない無人駅だったけど、大違いだよ。

 あ、電車が入ってきた。線路を走る電車のガタガタという音が大気を震わせて、こっちまで伝わってくる。

 思えばすぐ隣に駅があるって事は、列車の音や踏切の音が、頻繁に聞こえるって事だよね。うるさくないかが心配だけど、こればかりは慣れるしかないか。


 列車がホームに止まるのを見届けると、寒くなってきたから部屋の中へと引っ込む。


 そういえば隣にある駅の名前、何て言ったっけ。ええと……そうだ、たしか石才駅だったかな。

 新しい職場は、ここから徒歩で行ける距離。駅を利用する機会はあまり無いかもしれないけど、名前くらいは覚えておいた方がいいだろう。いつお世話になるか、分からないものね。


 おっと、でも今はそれよりも、やらなきゃいけない事があるか。

 部屋の片づけをしたり、日用品や食材といった、必要な物を買いそろえたり、役所に行って、面倒な手続きをしたり……ああー、もうっ、明日からは仕事だって言うのに、これじゃあ休む暇が無いよー!


 とにかく、やらなきゃいけないことが多すぎる。

 どうやらゆっくり落ち着けるのは、当分先になりそうだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る