第五十七話 パーカーの少女の警告
「返す言葉もない」と、やがて博司は答えた。「ただ僕は、自らの保身のために、ブラックローズに所属し続けている。何故ならば、足を洗おうとすることは、即ち死を意味するからだ」
「死?」亜紀と早穂の声が重なった。
「細胞学研究所とはいえ、あくまでもテロ組織の一部だからね」博司は低い声で答えた。「抜けようとすることは、即ち基本的には死を意味する」
亜紀たちも、そう言われては黙り込まざるを得なかった。
「そうだ、私、さっきの話で疑問に思ったことがあるんだけど」早穂がふと思い出したといった様子で声を上げた。「四人、って言ってましたよね? 私と、亜紀と、天音と……一人足りなくないですか? もう一人は、誰なんですか?」
「説明を忘れていたね」と博司は答えた。「それはね……」
その瞬間、亜紀は遠く、誰かの悲鳴を耳にしたように思った。ほぼ時を同じくして早穂と天音も顔を上げ、博司だけがただ一人、不思議そうな表情を浮べて三人の顔を見廻した。
「モンプエラだ」と早穂が言った。
「博司さん、お話をありがとうございました」と、立ち上りながら亜紀は言った。「申し訳ないのですが、私たちは行かなければなりません。またよろしければ、お話の続きを聞かせて下さい」
それから亜紀は、何かを付け加えるべきかと迷ったが、咄嗟には適切な言葉が浮んでこなかった。財布から小銭を取り出し、お金はいいよ、と言う博司の言葉を鄭重に断って、亜紀たちは店を出た。そして各々の自転車へ飛び乗ると、ペダルを強く踏み出して走り出した。目指す先は海だった。
* * * * * *
自室で机に向っていた桃香は、ユーストステッキがモンプエラを感知したことに気付いて、急いで屋外へと飛び出した。庭の自転車を引っ張り出したとき、居間の窓が開いて、兄の康輔が顔を出した。
「どうした、桃香。そんなに急いでどこか行くのか?」
「お兄ちゃん……」
桃香は口を噤んだが、上手い言い訳をすぐには思いつかなかった。訝しげな表情を自分に向けている兄に、「ちょっと、図書館に行くことにして」と答えて、彼女は自転車に跨った。
「そうか、行ってらっしゃい」
そう言った兄に微笑んでみせて、桃香は自転車を漕ぎ出した。モンプエラが現れた場所は、ユーストガールの直感に従えば、前回と同じ藤野港であり、現れたのもあの、オクトパスモンプエラに間違いないようだった。あのモンプエラに関しては、桃香には恐ろしい思い出があった。
吸盤の並んだあの触手に絡め取られ、身体を締め上げられたとき、桃香は死を覚悟した。碧衣が助けてくれたために何とか一命を取り留めたものの、本当に危ないところであったのだ。それというのもあの陽菜が、モンプエラと話し合えなどと横から口を出してきたことに端を発していたのだった。モンプエラと話し合う? 今思い出せば桃香も、碧衣と同じ、苦々しい感情を禁じ得なかった。あの悪魔たちに、話などが通じるわけがないではないか……。
そのとき、後ろから走ってきて横に並んだ自転車があり、桃香ははっと顔を上げた。見ればそれは、碧衣であった。籠に入れられた鞄から、青いユーストステッキの端がはみ出している。
「先輩も、モンプエラを感知されたんですか?」
そう尋ねた桃香に、碧衣は「そうよ」とだけ答えた。桃香は自身が愚問を発したことに気付いて羞恥に捉われたが、そのとき背後から自分の名を叫ぶ声が聞え、自転車を走らせながら振り向いた。見れば息を切らせながら必死で自転車を漕いでいる、陽菜の姿があった。
「全員が揃ったようね」
面白くもないとでも言いたげに、碧衣はそう言った。
三人はやがて、港へと続く一直線の道路へと差し掛かった。そこは立ち並ぶ倉庫と、岸壁に沿うて続く高い金網の柵とに挾まれた、余り人気のない道路であった。アスファルトは太陽光を受けて灼け、道路の果てには陽炎が揺らめいていた。しかしここまで来れば、敵のいる海はもう近いのだった。
そのときだった。右手の倉庫の屋根から、突如として何者かが飛び降りてきたのである。その人影は驚くほどの跳躍力で、道路の中央、桃香たちの目の前へと着地した。三人は一斉にブレーキを掛け、急停止した。
ビル三階分はあるであろう倉庫の屋根から飛び降りたにも関わらず、その相手は何らの怪我も負っていない様子であった。そして徐ろに立ち上り、三人のほうへと向き直った。
それは、中学生か高校生ぐらいに見える少女だった。黒い髪を顔の左右で二つに縛り、その房は水色のパーカーを着た肩に垂れている。パーカーは胸から腹部にかけての部分だけが白色だった。下には短い黒のスカートを履いており、露出した太腿から脛にかけての滑らかな白さが、夏日の中で際立った。少女は無言で二人を見つめたが、その眼差しは冷たく、何の表情も宿していないように見えた。
須臾の間、桃香たちと少女とは沈黙のまま向い合っていたが、やがて口を開いたのは少女のほうだった。
「あなたたちはこれ以上、モンプエラに関わらない方がいい」
透き通った、澄んだ声だった。但しそれはあくまでも感情のない、平坦で事務的な口調であった。
発せられたその言葉に、桃香たちは一斉に警戒態勢に入った。自転車から降り、各々の籠に入れられているユーストステッキを摑んだ。それを見ても尚、少女は平然としていた。
「あなた、何者」
碧衣がステッキを構え、相手を睨み付けながらそう尋ねた。少女は碧衣の顔へと視線を移したが、その表情にはやはり何も現れてはいなかった。
「それはお答えする必要のないことです」と少女は言った。「私はあくまでも、あなた方に警告を与えに来た存在に過ぎません」
「答えられないっていうのね」碧衣は敵意を隠さずに、じりじりと少女との距離を詰めていった。「あなたもモンプエラ……、悪魔の一人かしら?」
「先輩……」
正体のわからない相手を容易に挑発しない方がいい、と桃香は忠告しようとしたが、碧衣は少女を凝視したまま、「あなたは黙ってなさい!」と叫んだ。桃香は黙り込んだ。
「答えなさいよ」碧衣はステッキを相手に突き付け、声を荒らげた。「あなたは何者なのよ、そしてどこから来たの。何が目的なの!」
「お答えする必要のないことです」
少女は全く動じなかった。数メートルの距離を置いて突き付けられたステッキを、まるで他人に向けられているものでもあるかのように、無関心な目つきで眺めながら言葉を続けた。
「もうモンプエラと戦おうとするのはおやめなさい。あなた方三人のために申し上げていることです。このままではいつか、破滅の時が訪れることになるでしょう」
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