第四十七話 第三の天使

 陽菜は傍らに置いてあった熊の頭の形のポーチを開け、中からステッキを取り出した。それは桃香や碧衣のものと寸分違わぬ意匠のもので、ただ色だけは、桃香の桃色、碧衣の水色に対して、檸檬のような鮮やかな黄色で彩られていた。象嵌された宝石も当然ながら黄色で、トパーズのような輝きを放っていた。

「ステッキが授けられたといっても……」

 碧衣は苛立たしい表情でステッキを見下すと、もうそんなものは見たくないと言いたげに長椅子に足を組んで腰を下し、そっぽを向いて目をつむってしまった。

 白井は苦笑して、怯えている陽菜の手を取り、桃香へと顔を向けた。

「仲良くしてあげてくれませんか。何しろ今仰った通り、まだ一年生でしてね、私もこの歳であの怪物たちと戦うというのは早過ぎるようには思うのですが……。しかしこれも、彼女に課せられた使命なのですし」

「使命、ですか……」

 桃香は白井の陰に身を縮めている少女の小さな姿を見て、不信感を拭い切れなかった。確かに碧衣が失望するのはわかった。一年生という歳自体は、言うまでもなくたった一年の差に過ぎなかったが、彼女の眼には随分と幼く映ったし、そしてこんな戦意も覇気も感じられない子が、どうやってあのモンプエラたちと戦えるというのか、桃香には見当もつかなかった。

 応接間を出た後、碧衣は足早に階段を降りて行ってしまったが、桃香は遅れて出てきた陽菜を入口で待ち構え、呼び止めた。陽菜は怯えた表情で、扉の陰に立つ桃香を振り返った。

「稲葉……陽菜ちゃんっていうんだね」桃香は敵意のないことを示そうと、微笑み掛けた。「私、覚えてる? この間、廊下でプリントを……」

 陽菜は訝しげに桃香を眺めていたが、その言葉を聞いてようやく思い出した様子だった。「あ、あのときの……」と声を上げ、それから彼女は、弱々しく微笑んだ。

「佐々井桃香先輩、でしたね。私……」

 陽菜は困り果てたというように息をついた。「一体、何が何だかわからなくて。事の始まりはこの間の下校中だったんです。突然、空中から声が聞えてきて、あなたは天使だとか使命だとか……。そしてこの、訳のわからない棒が空から落ちてきたんです」

 彼女はポーチから端がはみ出ているユーストステッキを、憂いの籠った視線で見遣った。そんな彼女に桃香は安心を与えてやりたかったが、自分自身がユーストガールとは、モンプエラとは何かを把握できていない状況で、できることは限られていた。

歩いて崇天教本部の敷地を出、バス停へと向って歩きながら、桃香は自分がこれまでに何をしたか、白井や碧衣たちはこの事件をどう考えているらしいか、仔細に陽菜に話をした。陽菜は黙って聞いていたが、杉林の出口辺りにまで差し掛かったところで、ぽつりと口を開いた。

「私は、戦いなんかをしたくはありません」

「そうだよね……」

「こんなステッキなんか捨てて、私はそんなことに巻き込まれたくありません、やめます、では駄目なんでしょうか。……桃香先輩はどうして、こんなことを続けておられるんですか?」

「それは……」桃香は躊躇い、それから苦笑いを浮べつつ答えた。「単なる成行、っていうのが実は大きいんだけど……やっぱり、人が襲われているのを見過ごしてはおけなくて」

「そうですか……」

 陽菜の表情は、尚も暗かった。彼女が納得など到底していないということが、痛いほど桃香にはわかったが、彼女自身にもどうしようもないことだった。ただ今は、否応なく自分たちの事件に巻き込まれた、この年下の少女を哀れに思った。


* * * * * *


「そりゃさ、今やってる数学の知識が、社会に出て役に立たないとは言わないよ?」と早穂は言った。「でも私ね、絶対にそのとき、何も覚えてないし役立てられないと思う」

「でも今は諦めて頭に詰め込むしかないんだよ、早穂……」

 亜紀と早穂は向い合って卓につき、問題集と睨み合っていた。期末試験に向けて一緒に勉強をしようということになり、こうして土曜日の朝に早穂の自室に集まったのであったが、早穂は数学の問題集に苦戦しているらしく、シャーペンを休ませては愚痴を零していた。奈緒も誘ったのであったが、用事があるとのことで、今回は不参加であった。

「今の奈緒はライヴで頭が一杯だから、来ても捗らなかっただろうけどね」

「早穂も捗ってないように見えるけど」亜紀はノートから顔を上げて苦笑した。「午後はハンバーガー食べに行けるんだから、それまで辛抱して頑張ろう」

「う……そうだね……」

 早穂は渋々シャーペンを再び握り直すと、それでも素直に問題集に取組み始めた。部屋はよく冷房が効いていた。時々手を休めて顔を上げると、窓からは澄み渡った、雲一つない夏空が望まれた。再び問題集に視線を落しながら、亜紀は静かな幸福感を、嚙み締めるように味わった。友人の家を訪れるというのも亜紀にとっては珍しい体験であったが、この苦悩の絶えない人生の中で、友人と共に過ごせる、こんなに静かな時間を持てたということに、何か深い幸福を感じずにはいられなかった。

「亜紀、なんで笑ってるの?」

 早穂がちらと視線を上げて、悪戯っぽく問い掛けた。知らず知らずに口元が緩んでいたらしいことに気付いて、亜紀は慌てて表情を引き締めた。

「ううん、何でもない。何でもないよ」

 時計が午後一時を指すと、二人は大きく伸びをした。ウィステリア学院の近くに、新規に開店したハンバーガーショップがあるとのことで、早穂が新聞の折込みから見つけた割引券を利用して、昼食を摂ることになっていたのだった。勉強道具を片付けて家の外へ出ると、日光が容赦なく二人に照り付けた。

「うわ、紫外線やばそう」

「日灼けしちゃうね、こんなに強いと」

 そう言い合いながらも二人は自転車に跨り、目的のハンバーガー屋へと向った。途中の信号待ちのときに、早穂が明るい声で言った。

「あそこって多分、ウィステリアの生徒をターゲットにしてできた店だと思うんだよね。部活帰りの子とか結構いそうだし、もしかしたら知り合いに会うかも。結構あそこも知り合い多いからさあ」

「そうなのね。私は……知り合いというほどの人はいないなあ」

 中学時代の同級生で、ウィステリア学院高校へ進学した人たちもいたけれど、いずれも口も利いたこともない人ばかりだったし、と思いながら亜紀がそう答えたとき、一つの感覚が彼女を貫いた。それと同時に、小さな悲鳴のようなものが、耳の底に鳴り響くように聞えた。亜紀ははっとして顔を上げ、早穂も何かに気が付いたように辺りを見廻した。

二人は顔を見合せた。

「亜紀、今……」

「聞えたよね。……こっちよ!」

 亜紀はペダルを大きく踏み出し、自分の直感に従って、やや離れたところにある、浅間神社へと向って走り出した。正面の鳥居の前で自転車を乗り棄て、鎮守の森へと駆け込んでいった二人は、腰を抜かして地面に倒れている一人の老人と、その相手へと向って歩み寄っていく、一人の少女の姿をそこに見出した。

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