第三十一話 研究員たち
週明け、学校へ向う桃香の、ペダルを漕ぐ足は何となく重かった。
崇天教総本部を訪れたはいいものの、肝腎の白井の説明は神だとか天使だとか、現実離れしているとしか思えない話ばかりで、到底桃香にとっては満足のいかない、信用するに値しないものだった。
勿論、今の自分の状況がそれこそ現実離れしたものであることはよくよく承知していた。しかし求めていたその理由の説明は、あくまでも現実に即したものでなければ納得がいかなかった。魔法少女、天使、そんなものは現実には存在しないのだ。そう考えつつも桃香は、それ以外にユーストガールの力を説明するものは、何もないのかもしれないと思い迷った。
それにしても驚いたことが、生徒会長の水野碧衣が、崇天教の信者であることだった。ウィステリア学院にも信者はいるんだよ、という話を以前に同級生から聞いてはいたし、これだけ大勢の生徒がいればいてもおかしくないな、とは思っていたのだが、まさかその一人が生徒会長ではあるとは、思いもしなかったことである。そのことを知った後、余りにも立て続けに思いがけぬことが起るので、頭の中を上手く整理できぬほどだった。
ひとまず心を落着けるには、絵里や詩織の顔でも見て、言葉を交すしかないのかもしれない、と桃香は思った。今はとにかく、崇天教もモンプエラも関係ない、普段の生活に戻りたかった。そう思った彼女はペダルを強く踏み込んで、逸る心を学校へと運んだ。
しかし昇降口までやってくると、桃香は誰かが昇降口の脇の壁に寄り掛かり、腕を組んで立っているのに直面せざるを得なかった。すらりとしたその長身は、まさしく先日、崇天教総本部で会ったばかりの生徒会長、水野碧衣に相違なかった。相手を認めた桃香は、息を呑んでつと立ち止った。
「お、おはようございます。水野先輩……」
「佐々井桃香さん」碧衣は壁に寄り掛かるのをやめ、桃香に向き直った。「あなたに、訊きたいことがあって来たの」
「何でしょうか……」
桃香は不安な心持になって答えた。碧衣と相対すると、彼女は毎回こんな気持になった。どこまでも冷徹で、隙のないその態度。見られる者をどこまでも狙い、射抜くようなその鋭い眼。学園の女王として、恐れられているのも頷けるというものだった。碧衣は言った。
「あなた、ユーストガールとして、これからも戦うつもりがあるの?」
桃香は答えるのに躊躇した。命の惜しくない筈がなかった。前回のマンティスは剣で切り捨てることができたが、次に現れたモンプエラも、同じように上手く倒せるとは限らない。モンプエラとの戦いは、命を懸けた戦いだった。遊びではないということを彼女自身もよくよく知っていた。しかし、自分が戦いを放棄するとなれば、誰があの化け物に襲われる人々を守るというのだろう……。碧衣が、その役割を果してくれるだろうか。
「わかりません。まだ私には……気持の整理もまだついていないんです」桃香は正直に言った。「白井さんの言っていたことも、本当のことなのかどうかはわからないし……まだわからないことが余りに多過ぎて、ここでそう簡単には答えられません。でも……」
桃香は顔を上げた。
「誰かが襲われていたら、助けずにはいられない。そういうものだと私は思います」
碧衣は黙って聞いていたが、やがて深く溜息をついた。
「百点中十点ってところね。覚悟もなしに、あの悪魔たちに立ち向うことが本当にできるのかしら? 白井先生の仰ることは真実であるけれど、あなたがユーストピンクとして戦っていくには、まだまだ遠い道程があるようね。今のあなたを、私は決して認めないから」
「認めない、ですか……」
桃香の表情は暗くなった。
「これから一緒に悪魔に立ち向っていくこともあるとは思うけれど、今のあなたの状態では、きっと足手まといになるだけね」碧衣は冷たく言った。「一度、あなたの本当の覚悟を見せてご覧なさい。実戦でね」
そう言うと碧衣は、戞々と足音を響かせながら歩き去っていった。
取り残された桃香は、複雑な気持を持て余して、しばしその場に佇んでいた。
* * * * * *
白衣を着た一人の男が、部屋の片隅の机に向っていた。
雑然とした部屋だった。幾つかの長机が部屋の壁に沿って押し込まれたように置かれており、その上には書類や本、何らかの器具らしきものが積み重なっている。男の机の反対側にはスチール製の本棚が置かれ、そこにも一杯に本が詰まり、溢れ出しているが、その手前の段ボールの山のために、近付くことも難しいほどである。
男の向っている机上には顕微鏡、ペトリ皿、試験管立てなど、様々な実験器具が並べられている。男はスポイトを手に取り、ペトリ皿の一つから、少量の液体を吸い取った。それから液体をスライド硝子の小さな板の上に垂らし、素早くカヴァー硝子を被せて、顕微鏡のステージに固定した。彼が接眼レンズを覗き込んでしばらく観察を続けていると、部屋の扉がノックされる音がした。
「どうぞ」と顔を上げて彼が振り返ると、男と同じ、白衣を着た女が姿を現した。歳は三十代ほどで、男よりは若く見える。肩までの長い髪は茶色に染められ、胸ポケットには赤いフレームの眼鏡が挿し込まれていた。
「博司くん、頼まれたものを持ってきたわよ」
「どうもありがとうございます」
博司と呼ばれた男は立ち上り、女が手近な机に置いた段ボールの箱を開封し始めた。その間に、女は気さくな態度で隣の回転椅子に腰掛けると、脚を長く伸ばして部屋を見渡した。
「確かに受け取りました、都美子さん」
「そう、よかった。それにしてもきったない部屋ねえ相変らず」
都美子と呼ばれた女は、苦笑しながら部屋のそこかしこを指差した。博司は顔を顰めて、再び顕微鏡の置かれた机へと戻っていった。
「いいんですよ、どこに何があるかはわかってますから」
「いいとは思えないけどなあ、本も取れやしないじゃないこれじゃ」
「腕を伸ばせば届きますから!」
そんな言葉の応酬をしばし続けた後、都美子はふと思い出したように、博司へと視線を向けた。
「昨日は日曜だったけれど、またあの子の様子を見てきたりしたの?」
顕微鏡の調整をしていた博司は動きを止め、それからゆっくりと相手を振り返った。彼の浮べている表情は真剣だった。
「ええ。朝、どこかへと出掛ける姿を確認しました。用事がありましたし、それ以上つけたりなどはしませんでしたが。……元気そうでしたよ」
「さながら不審者ね」と都美子は笑った。「でも気になるんだ、やっぱりあの子のことが」
「それはそうですよ」博司は表情を引き締めた。「僕は……あの子を見守り続けなければならない。それが義務であると思っています」
「義務、ねえ」女は苦笑にも似た笑いを浮べた。「あなたのこういう行動を御存じになったら、望月さんや上荒磯さんは何というかしらね……」
「上荒磯博士は大丈夫な気がしますが、望月さんには……まあ、どやされるでしょうね。そんなくだらぬことをやっている暇があるならもっと役に立つことをしろ、と。しかしプライベートぐらいは本来、自由に使わせてもらって構わない筈ですけれど」
「私達は、普通のサラリーマンと同じようにはいかないものなのよ」都美子は、椅子を軽く左右に廻しながら笑った。「できないことはできないと思い切らないから、望月さんなんかにも眼を付けられるのよ。まあ、私だって全く同じことだけれどね」
博司は険しい表情を浮べ、脣を硬く結んだ。都美子は振り向いてしばしその様子を見つめていたが、白衣のポケットを探り、小箱を引き出して彼に差し出した。「煙草でも、吸う?」
「いえ、結構です。僕は禁煙主義者ですので」と博司は答えた。「というかこの研究所、全館禁煙じゃないですか……」
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