第二十三話 天の声を聞く
桃香はその日、委員会の仕事で遅くなったために、絵里や詩織と共に下校することはできなくなった。ようやく仕事を終え、一人で鞄を持って廊下へと出た彼女は、向うから大量の書類を持ってやってくる、一人の女子生徒の姿を認めた。
場所は中等部校舎と高等部校舎が接続されている辺りである。しかし上靴の色を見て、その女子生徒が、高等部一年の生徒であることがすぐにわかった。桃香はそのまま何気なく行き過ぎようとしたが、女子生徒の余りの危なっかしい様子に、思わず足を止めた。
その女子はかなりの小柄であったが、積み重ねられた書類はその顔を隠してしまうほどに堆い。身体も均衡を保つのが難しいらしく、絶えず左へ右へとよろけながら進んでいる。桃香は見兼ねて歩み寄り、声を掛けた。
「大丈夫? 手伝いましょうか?」
「だ……大丈夫です、ありがとうございます……」
喘ぐように相手がそう答えた瞬間、書類の山の上半分がゆっくりと辷り落ち、桃香が手を出して押える間もなく、大きな音を立てて床に散らばった。女子生徒は悲痛な声を洩らして、残りの半分を床へと置いた。
「ごめん、私が声を掛けたりしたから……」
桃香は鞄を投げ出して屈み込み、廊下の反対側の隅まで散らばった書類を、慌てて拾い集め始めた。見るとそれは、数学のプリントであった。
「いいえ、全然。やっぱり無理に一度に運ばないほうがいいんですね」
小柄な女子生徒は首を振ると、桃香と共に書類を拾い集め始めた。やがて再び書類は元のように積み重ねられたが、桃香はその半分を彼女と共に運ぶことを申し出た。相手は繰り返し礼を言いながら、今度はその申し出を受け入れた。
二人は目的地である印刷室までやってくると、印刷機の脇の机の上に積み重ねた書類を置き、息をついて顔を見合せた。
「ありがとうございます、本当に助かりました……。実はこのプリント、要らなくなったやつらしいんですよね。裏紙を使うそうです」
「そういうことだったのね、どうして印刷室へ運ぶんだろうと思ってたけど」桃香は初めて足を踏み入れた印刷室を、物珍しげに見渡した。「じゃあ、お仕事お疲れ様」
「本当にありがとうございました」
女子生徒は明るい笑顔を桃香へ向けると、廊下を反対側へと歩み去っていった。桃香は人を助けた後特有の、あの爽やかな気持を感じながら、昇降口へと出て靴を履いた。そのときふと視線を感じて、彼女は振り返った。
下駄箱の陰に一人の女子生徒の姿が見えた。先程の一年の女子ではない。寧ろ背は高く、上靴も桃香と同じ二年のものだった。茶色の艶やかな髪を長く伸ばし、背中にまで垂らしている。桃香が振り向くと同時に踵を返して立ち去ってしまったのでよくは見えなかったが、その前髪が真直ぐに切り揃えられているのが、彼女の眼にも映った。その女子生徒が背後から自分のことを見つめていたような気がして、桃香は首を傾げたが、すぐに気のせいだったのだろうと思い直して靴を履き、外へと出た。
その日は帰路の途中が工事現場になっており、桃香は途中で自転車を降りた。暑さはそれほどでもなく、よい陽気であったので、何となくそのまま自転車を引いて歩き続けたが、そのとき道の脇から、ふと声を掛けられた。
「もしもし、お嬢さん」
「え?」
桃香は驚いて足を止め、相手をまじまじと見た。それは所々に継ぎを当てた、古ぼけた着物を着て、龍の頭の彫り込まれた木の杖を突いた、いかにも謎めいた風体の老人だった。小柄なその老人は桃香を見上げて微笑み、やや籠もり気味の粘着質の声で、ゆっくりと喋った。
「初めまして。私は、崇天教の者ですが」
「崇天教?」
スウテンキョウって何だっけと一瞬考えてから、桃香はそれが、以前からよく名前を聞く、新興宗教団体の名前だということを思い出した。そして初めて気が付いたのだが、そこは丁度、「崇天教中野支部」と看板の掲げられた、あの建物の目の前に当る場所だった。
ああ、宗教かと苦笑いを浮べて、彼女は直ちに逃げの姿勢に入った。そのまま無視して通り過ぎてもよかったのだが、持ち前の優しさと弱気とが、それを彼女に躊躇わせた。
「ああ、私のうちはもう昔から、近所のお寺の檀家なので……」
「檀家ですか」と老人は言った。「ほう、宗派は何でしょうか?」
「ええと……」
内心、面倒なことになったなと桃香は思った。檀家になっている寺のことなどには特に関心はなかったので、何宗なのかさえもよく知らなかった。それでもその寺院の門柱に「禅寺」と書いてあったのを思い出して、日本史で習った知識を元に、桃香は適当に「曹洞宗です」と答えた。そう答えてしまってから、どうして自分はこんなに会話を切り上げるのが苦手なんだろうと、彼女は自分に呆れて溜息をついた。
「曹洞宗ですか、ふむ」老人は感心したように頷いた。「私らのところにもね、同じ宗派の方は結構来ていらっしゃいますよ。なにせ崇天教は懐が広い。他の宗教を信じていようとも、天日大神様さえ信じていれば入ることができる、そういう所なのです。日蓮宗、浄土真宗、臨済宗、それにキリスト教徒でもね。どうです、意外に思われましたかな」
「はあ、知りませんでした」
そんなのもありなんだ、と桃香は思った。しかしそれ以上、崇天教なる新興宗教には興味がなかったし、この老人は勧誘を試みているのだろうが、ましてや信者になるつもりなどは毛頭なかった。何とか適当に話を合わせて切り上げようと考え始めたとき、不意に老人が、「お嬢さん」と声を上げて桃香の手を取った。
「な、なんですか」
桃香は驚いて身を引いた。多くの皺が刻まれ幾つかのシミの散った老人の手が、彼女の白い繊手を捉えて離さなかった。そして顔を上げた老人の眼が、まるで狂気のように、桃香の顔を凝視していた。その様は不気味としか言いようがなく、あと少しで彼女は悲鳴を上げるところだったが、老人はすぐに手を離し、大きく眼を見開いたまま溜息をついた。
「いや、失礼いたしました。しかし驚きましたな……。こんな所で、まさかこのようなお方にお会いするとは……」
「何ですか?」立ち去りかねて、困惑しながら桃香は尋ねた。
「あなたには素質がある。素晴らしい、非常に稀有な素質が……天の声を聞くことのできる、選ばれし者があなたかもしれない」
「天の声を、聞くことのできる者……?」
余りの馬鹿らしさに思わず苦笑を洩らしかけた桃香だったが、そのとき脳裡に、モンプエラとの戦いのときにどこからか聞こえてきた、謎の声のことが不意に蘇った。
『あなたは博愛の天使、ユーストピンク。そのユーストステッキを使い、変身するのです。それはあなたの使命』
『さあ、あなたが人を助けるときです。ユーストピンク』
そうだ、あの声はいつも遠くから、天の彼方から呼びかけてくるような響きを持っていた、と桃香は思った。そして、「戦士の使命を与えられた者」と自分に告げていた。しかし、この老人があの声のことを知っている筈はない。偶然のもたらした奇妙な一致であるとしか、普通なら考え難いことだったが……。
最早桃香は、老人の言葉を笑い飛ばすことのできない心境になっていた。しかしそれを口に出すこともできず、思い迷ったまま立ち止っていたのだが、無論先に口を開いたのは老人のほうだった。
「あなたは」と言いながら、老人は真剣な表情で桃香を見上げた。「天の声を聞かれたことが最近、おありですかな? 私の感覚が間違っていなければ、きっと、お心当りがございましょう」
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