第九話 モンプエラ

 駅の公衆便所で、一人の少女が鏡に向って立っていた。不衛生な、悪臭の漂う便所である。壁も床のタイルも汚れて黴が生え、湿気が籠って鏡にも窓硝子にも結露が貼りついている。部屋中は水をぶちまけたような有様で、排水溝には髪や濡れた埃が溜まっている。そんな不潔な、普通ならば長居もしたくないような便所で、少女はじっと佇んだまま動かなかった。

 体格は小柄で、身体には光沢のある緑色のジャンパーを羽織っている。背には大きく龍の柄が描かれていた。下も濃い緑色のスカートで、脚は黒いタイツで包まれている。こんな場所に佇んでいるせいか、しっとりと湿ったような髪は二つ縛りにされて肩に掛かり、ぎょろりとした力のある眼は、鏡の中の自分に見入っていた。

 そのとき、便所の入口からもう一人の少女が入ってきた。緑色に染めた髪を短く肩で切り揃えた、細身の少女である。緑色の上着に茶色いスカートを履いたその少女は、鏡の前に立っている小柄な少女を見つけると、その切れ長の眼を動かさずに口を開いた。

「こんなところで何をしている」

 小柄な少女は大きな瞳を相手に向け、薄い脣を曲げて笑った。

「別に何もしていないさ。あたいは水気のあるところが好きでね」

「ふん。水気のあるところ、か」

 切れ長の眼の少女――マンティスモンプエラは、タイルに貼られた「節水」のふやけた貼り紙を、不快そうな表情で眺めた。「それでお前は満足なんだな」

「そう急かさなくたっていいじゃないか、別に課せられた使命というわけでもないんだから。でもあたいだって、ゆっくりと殺しはやっていくつもりだよ」

「私は別に、他のモンプエラのやることに干渉しようとする気はないが」とマンティスは答えた。「気を付けたほうがいい。私たちに危害を加えてくる、奇妙なモンプエラが存在する」

「へえ。何だい、それ?」

「あのモンプエラは、恐らく偶然に私とあの場で遭遇した」マンティスは答えた。「女子高生の服装をしているモンプエラだった。私は最初はただの人間だと思い、狙っていた二人の人間のついでに、殺してやるつもりでいた。しかし私が襲い掛かったとき……あいつは人間を庇って変身し、そして私を攻撃してきた」

「へえ、それは興味深いね。何のモンプエラだったんだい?」

「黒い三角形の耳と、同じく黒い、細長い尻尾を持っていた。猫辺りの動物とみるのが適当だと思うが。結局私は、そのまま撤退せざるを得なかった」

「ふうむ、猫ね。猫とは珍しいね。蟷螂が猫に敵うはずはないさね」

 小柄な少女は、濁った笑い声を立てながら言った。

「黙れ。生成元の動植物の強弱が、そのままモンプエラの強弱に反映されるわけではない!」マンティスは苛立たしげに叫んだ。「我々は皆、同じ人間型の身体を持っている。高い智能もあるのだから、能力とて使い様だ」

「わかってる、わかってる。あたいは冗談で言っただけなんだよ」小柄な少女は面倒臭げに手を振った。「それにしても、その猫のモンプエラが何故あんたの妨害をしたのかが疑問だねえ。人間を庇う動機なんていうのが、有り得るものかい?」

「私にもわからない。謎だ」

 僅かな間があり、それからマンティスは再び口を開いた。

「もう一人、妙な妨害者がいた。あれはモンプエラではないと思うが……同じく女子高生の姿をしていた。私が別の人間二人を殺した後に遭遇し、こいつも殺してやろうと襲い掛かっていったとき、妙な姿に変身して反撃をしてきたのだ」

「妙な姿? 本当にモンプエラではなかったのかい?」

「いや、人間だった。モンプエラの気配は全く感じられなかった。何かステッキのようなものを手に持っていて、それを高くあいつが掲げた瞬間、全身が光り輝いた。次の瞬間には白と桃色のドレスを着た、先ほどまでとは全く異なる姿に変っていた。そして相手は、そのステッキで私を突き飛ばした」

「それでお前は?」

「私は……」マンティスは言い淀んだ。「取り敢えずは撤退した。既に長時間の飛行で体力を消耗していたし、思いのほかに相手が強力だったからだ」

「あんたでも、おとなしく撤退するなんてことがあるんだねえ」

 小柄な少女が目玉を動かして笑うと、相手は拳を振り上げて叫んだ。

「だが! この次は絶対に殺してやる! 準備が足りなかっただけだ、体力と準備さえ万全なら、あんなモンプエラも人間も、即座にずたずたに切り刻んでやる!」

「おう、おう、意気盛んなことだね」

 小柄な少女は便所の奥の窓へと歩み寄り、留め金を外して曇り硝子を引き開けた。ビル裏の、蒸気を噴き上げる室外機の並んだ狭い敷地がそこからは見えた。少女は空を見上げて、「まだしばらくは雨が降りそうもないねえ」と呟いた。


* * * * * *


 桃香は蒲団にくるまったまま、何時間も動かずにいた。カーテンを閉め切った部屋の中は薄暗く、今が何時なのかも定かではない。

 あれから数日経つが、あの恐ろしい事件に強い衝撃を受けた桃香は、学校を休んで部屋に籠もり続けていた。両親も様子の急変した桃香を心配して、余り口うるさくは言ってこない。甘い親だとはぼんやりと思ったが、その甘さが、今はただ有難かった。

 殺人現場を目撃したことや、鎌を持つ緑色の化物に遭遇したこと、自分が変身して相手を撃退したことなどについて、桃香は親を含め、誰にも話してはいない。話しても信じてはもらえないだろうと思われたし、気が狂ったのだと思われてしまうことも充分に考えられるためでもあった。それとも自分は本当におかしくなってしまったのかもしれない、とさえ桃香は思っていた。あの放課後に経験したのは、とても現実では考えられないような出来事だった。またあの緑色の少女が襲撃してくるのではないかと、部屋から出ることさえも恐ろしい気がした。

 あの奇妙な白と桃色のステッキは、机の一番下の引出しに、放り込んである。時々目が覚めると、桃香は恐る恐るベッドから降りて、その引出しを開けてみる。書類の束や文房具の箱やらの間に、ステッキは埋め込まれた宝石を燦めかせて、確かにそこに転がっていた。それはあの事件が、紛れもない事実だという現実を、容赦なく桃香に突き付けてくる。彼女は溜息をつく気力もなく、そのまま引出しを閉めた。

 三日目の夕方に、下校途中の絵里が見舞に来た。そこで初めて桃香は、両親が桃香は風邪だと学校に知らせていることを知ったのだが、絵里はどうもそれが噓であることを見抜いていたらしく、部屋へ入ってくると、「何かあったの、桃香?」と尋ねながらベッドへ腰を下ろした。

 桃香は掛け蒲団を肩まで被り、枕に半ば顔を埋めたまま、どう答えようかしばし迷った。自分が遭遇したあの出来事を、親友である彼女なら信じてくれるだろうか。桃香は彼女のことを信頼していた。しかしもし、桃香がこんな話をしているということが校内に広まったら、只でさえいつもぼんやりしていると指摘される桃香は、遂におかしくなってしまったのだと皆が確信するに違いない。そう考えて桃香は、蒲団の中で小さくかぶりを振った。

「詩織たちも心配してるよ、三日も続けて休むなんて、かなりの大事じゃないかって」

「何かね……どうも行く気がしなくなっちゃって……」

「え、そうなの? もしかして……鬱病ってやつ?」

 絵里は真剣な表情で身を乗り出してきた。「もし鬱病なら、精神科に行ったほうがいいよ。そういうのって、一人で悩むのが一番悪いから」

「う、ううん……。大丈夫、鬱病ではないと思うから……」

 桃香は相手に圧されるようにして、慌てて両手を振って否定した。そして「そう?」と首を傾げながら元の体勢へと戻った絵里を見て、何となく微笑した。自分が鬱病であるとは思わなかったが、確かに一人で悩み続けるのが最も悪いという絵里の言は、真実であるように思われた。こうして親友の姿を目の前にしていると、何とはなしに安心感が込み上げてくるのが感じられ、俄かに学校が恋しくなった。また皆と一緒に授業を受け、詩織のお喋りを聞いて絵里たちとともに笑い合いたいと思った。

「ありがとう。明日からは私、学校へ行くよ」

 そう桃香が言うと、絵里も微笑み返して頷いた。

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