01.「元暗殺者は勇者学院で落ちこぼれる」


 * * * * * *



 ……遠い遠い昔のお話です。


 かつて地上は、魔性の者どもが跋扈ばっこする暗黒の世界でした。

 魔性の者どもは、遥かに強い力を持っていて、人類に対抗する術はありません。

 滅びは、時間の問題だと思われました。


 そんな絶望的な状況の中、たった一人、希望を捨てなかった者がいました。

 神はこの者に奇跡アークを授けました。"始祖"。青年はそう呼ばれるようになります。

 "始祖"は奇跡アークの力をもって、次々と魔性の者どもを討ち滅ぼしていきました。


 そして――七日間の激戦の後、魔の王を封印することに成功します。


 しかし、この戦いで人類が支払った代償は大変大きなものでした。

 魔の王との戦いで深い傷を負った"始祖"は、命を落とすことになったのです。

 しかし、神は言いました。


「"始祖"の"意思"はかれました。祈りなさい。かの地に再び、"始祖"を継ぎし者が現れるでしょう……」


 そして、神の言った通りになりました。

 王国の各地に、奇跡アークを持つ子供たちが次々に生まれてきたのです。



 ………………

 …………

 ……



 それから、長い年月が経ち。

 奇跡があまりにも身近になりすぎ、異能という言葉に取って代わられた時代。


 異能アークを持つ少年少女たちが集う、王立異能学院から物語は始まる……。



 * * * * * *



 それはまるで、神様が僕たちの門出を祝ってくれたかのような晴天だった。


 晴れ晴れと澄みわたる空に、二つの旗が揚々とはためく。


 一つは、王国の象徴たる『聖国旗』。

 そしてもう一つは、剣と盾の紋章が刻まれた、『カルネアデス校旗』だった。


 それは、勇者を目指す少年少女にとってあこがれの象徴。

 これから僕たちが入学する、"カルネアデス王立異能学院"の校旗だ。


 普段は競技場として使われているグラウンドに、新入生たちが並んでいる。

 絢爛たる学び舎を背に、彼らは希望の未来を胸に描いていた。

 

 そんな中に、僕ことトーヤ・アーモンドもいた。


 ……緊張する。本当に、僕みたいな人間がいてもいいんだろうか。


 本当に、今でも信じられない。

 絶対に勇者には縁がないような、そんな人生を送って来た僕だ。

 そんな僕が、勇者候補生になれるなんて。


 正直、このグラウンドに来るまでの道中も、ずっと興奮しっぱなしだった。


 どこを見ても、立派な建物ばかり並んでいる。

 通路には紙屑一つ落ちてないし、どこも綺麗に清掃されているし。

 貧民街育ちの僕には馴染みがなさ過ぎて、現実のものとはとても思えない。

 

 けど、現実、現実なんだ……。胸の高まりは、全然収まろうとしない。

 嬉しすぎて、そわそわして落ち着かない。

 もしかしたら、そわそわし過ぎて周りからは変な目で見られているかもしれないけれど……そんなの、構うもんか。

 だって、嬉しいんだから。仕方ないじゃないか! 


 そんな僕をよそに、入学式は厳かに進んでいく。

 

『聖痕を胸へ!』


 教員である壮年の屈強な騎士の号令で、新入生は一斉に、聖痕が刻まれた右腕を胸に宛がった。

 僕も周りに習って、同じポーズを取る。


 これは古くから伝わる、王国と神様に忠誠を誓うポーズだった。


『これより諸君らは、名誉ある勇者候補生として、我らが学院の一員となる。

 近年、魔物は増加の一途をたどっていることは知っているだろう。

 我々は、いや全王国民が、君たちのような有望な若者を求めているのだ!

 

 ……改めて言おう、"ようこそ"と!』


 教員たちの激励を受けて、僕たち新入生は湧き上がる。

 断言しよう。今まで生きてきた僕の人生で、この日が最高の日だった。




 最高な日、だったハズなんだ……。



「トーヤ、君に大事な話がある。……ついて来てくれないか」


 そして、あの入学式から、一年と少し後。

 僕は班のリーダーであるウェインから、声を掛けられていた。


 普段は温和で朗らかなウェインだが、今日ばかりは真剣な表情だ。

 僕は頷くと、黙って彼の後に着いていく。


 正直、予想はしていた。正直、時間の問題だったし……。僕は僕なりに頑張った、なんて言葉は言い訳にしかならないだろう。


 悔しくない、と言ったら嘘になる。けど、これも現実なんだ。

 入学式のあの日には、こんな日が来るなんて、思いもしなかったな……。


 ――僕はこれから、班を追放される。それはもう、避けられないことだった。


 覚悟を決めて、ウェインと共に部隊室ルームの中に入る。

 僕たちは学院から下された任務を終えて、学院に帰還したばかりだった。


 普段はこの後、各自解散するのがいつもの流れなんだけれど、珍しいことに、今日は部隊室ルームに皆が揃っている。

 きっとウェインが集めてくれたんだろう。

 さすがは名門学院きっての優等生。変わり者ばかりのうちの班を纏めて、『塔』の十一層まで到達しただけのことはある……。

 なーんて、他人事みたいに考えていると、早速ウェインが本題に入ってくれた。


「トーヤ、君には今日付けで僕たちのチームから抜けてもらうことになった」


「ええーっ!? 別にクビにすることはないんじゃないかな!? ほら、ボクはトーヤ先輩の【シールド】に何度も助けてもらったし……」


「るっせえレヴィ、それはオメーがすっとろいからだろーが。いいか、俺たちにはコモンクラスの、それも攻撃も出来ねえ盾持ちなんかに枠を割く余裕はねえんだよ。最低でもレアクラスになってから出直してくるんだな!」


「ふむ……確かに私も、彼に班から外れてもらう事に賛成はしましたが。ガルム、君の言い方は少し頂けないな。異能アークは先天的に決まるもので、努力で何とかなる問題じゃあない。君の低クラスの異能を見下す発言は、選民思想に繋がる危険な行為だ。今のうちに改めた方がいい」


「ああん!? てめーのお説教は聞きたくねえよ、ミーシャ! だったらアレか、生きてるうちに異能が変えられねーんだったら、それじゃあ来世にでも期待しろってことか?」


「やれやれ、そういうことを言いたいわけじゃないんだが……。どうやら、君のような単細胞には私の話は難しかったみたいだね」


「誰が単細胞だ! 頭でっかちのガリ勉ヤローが! バーカ!」

 

 もはや僕をそっちのけで、ガルムとミーシャの言い争いが始まる。


 この名物風景も、とうとう見納めか。

 もっとみんなと一緒にいたかったんだけどな……。

 二人の争いを遠目に眺めつつ、僕はウェインから渡された班の離脱届に粛々とサインをするのだった。



  ◇



 異能アーク。それは神様から授けられる、特別な才能である。

 この国では、赤ん坊は稀に、聖痕という聖なる"あざ"を持って産まれてくることがある。彼らには一人一つずつ、特別な能力が与えられている。

 このカルネアデス王立異能学院は、異能アークを持って産まれてきた少年少女を競わせ、勇者エリートを選別する、弱肉強食の世界だった。


 神様は残酷なまでに不平等で、異能アークの中にも序列を用意していた。コモン、アンコモン、レア、ハイレア、エピック、そしてレジェンド。

 クラスが高くなればなるほど、能力も強力なものとなる。クラスの差、それが絶対的な能力の差であることは、僕が一番身に染みて理解していた。


 僕の異能アークシールド】は最低クラスのコモン級。そしてその能力は、盾を実体化すること。我ながら勇者には似つかわしくない、地味な能力だ。


 華々しく魔物を倒す異能の方が目を引くのは自然なことで、僕の【盾】の異能は、どこで活躍してるか分からない、いまいち影の薄い異能だと思われていた。


 ただそれは、勇者向きじゃないというだけで、決して弱いというわけじゃない。

 なにせこの盾は、異能による攻撃を打ち消してしまう『異能殺しの盾』だったのだから……。




 少し、昔の話をしようか。


 おっと、そう言えば自己紹介がまだだったかな。

 僕の名前はトーヤ・アーモンド。ちょっと前までは『汚れ仕事』をしていたけれど、今はれっきとした勇者候補生だ。

 ……まあ、落ちこぼれ、なんだけど。


 それで昔の話だっけ。

 小さい頃の僕は、全然泣かなくて、手の掛からない子供だったそうだ。

 それで僕の右手には、生まれた時から不思議なあざが付いていた。周りの兄弟たちには付いていない、僕だけのあざだ。

 

 どうしてなのとお母さんに聞くと、


「それはね、トーヤちゃん。神様がトーヤちゃんのことを選んでくれた印なんだよ」


 と教えてくれた。

 その頃の僕にはあまり理解できなかったけれど、僕は鼻水を垂らしながら「へー、そうなんだー」とよく分からずに納得した振りをしていたと思う。


 そして、僕が初めて異能アークを発現したのは、五歳の時。

 実は小さい頃の記憶はあまりないんだけれど、それでもその時の周りの大人が、とても驚いていたことだけはしっかりと覚えている。


 本来、異能というものは、人類が太刀打ちできない魔物を討ち滅ぼすために生まれたもの。敵を発火させたり、雷を落としたり、樹木を意のままに操ったり。戦うための"武器"となるもの、それが異能アークのはずだった。


 一切攻撃手段を持たない異能なんてものは、治癒系を除けば、前代未聞。だから僕は、奇異の目で見られることになった。


 「攻撃も出来ない、出来損ないの異能アークだ」。そんな風に言われたこともある。

 でも、そんなこと、小さい頃の僕には関係なかった。あの伝説の勇者と同じ聖痕が、僕の右腕に付いているんだから。

 それだけで僕は、少し救われた気持ちになった。


 ――誰もが知っている英雄譚。魔王を討伐して、セカイを救った勇者の物語。


 街角で繰り広げられる人形劇。

 僕はそれを見て、ワクワクしながら勇者を応援していた。いつしか僕は、そんな勇者の姿に憧れていた。


 ――僕も、勇者みたいに、なれるかな? 幼心に芽生えた、小さな夢。


 しかし、いつまでも勇者おとぎばなしに憧れる子供ではいられなかった。

 ご飯が食べれなくて、明日死んでしまうかもしれない。そんな現実の前では、勇者の夢なんてただの幻に過ぎなかった。


 兄弟たちを食べさせるために、そして自分が生きるために。それが貧民街で生きる僕たちの現実だった。


 そして僕は、生きるために異能を使うことを決心する。


 この世界には、異能を使って金を稼ぐ方法がいくつか存在した。

 中でも一番手っ取り早いのは、魔物を倒して生計を立てる、傭兵業だ。人里に寄ってきて被害を生み出す魔物を駆除し、その見返りとして報酬を受け取る。


 勇者の役割が「人類の生存圏を拡大すること」だとすれば、傭兵の役割は「今ある生存圏を保守すること」だと言えるだろう。


 高クラスの異能に恵まれれば、勇者となって華々しく活躍することもできる。しかし、殆どの人間はそうじゃない。そして夢破れた結果、この傭兵業にたどり着くことになる。


 しかし、僕の異能には、魔物を倒す力すらなかった。

 そんな人間が金を稼ぐとしたらもう、「荒くれ者の世界」しかない。

 こうして僕は、十歳にして「荒くれ者の世界」に身を投じることになる。


 例えば――何か後ろ暗いことのある人間を護衛する『用心棒』。


 時には、同じ異能持ちの少年と命のやり取りをすることもあった。

 彼は、僕の雇い主の"対抗勢力"から送られてきた鉄砲玉だった。

 食い詰めた異能者の子供が、権力者に拾われて、雀の涙のような報酬と引き換えに道具としていい様に利用される。

 この世界では、よくあることだった。


 そういう相手には、自分が到底敵う相手ではないと、徹底的に分からせてやればいい。

 この頃になると、何度か場数を踏んで、僕の【盾】がただの盾じゃなく、異能の攻撃を打ち消す力があることもきちんと理解していた。だから、異能者同士の戦いには負けないという絶対の自信があった。

 そして、どうやっても僕には勝てないと悟ると、大抵向こうから引いてくれた。


 お互い、「雇い主なんて命を賭けてまで忠誠を誓う相手じゃない」というのが共通認識だった。自分が命を落とすぐらいなら、任務を放棄して姿をくらまし、別の雇い主を見つければいい。

 そうやって要領の良い者だけが、この世界で生き延びていく。


 「専属の護衛にならないか」と誘われることもあった。けれど、そう言った誘いは全て断った。悪党のお守りで人生を終えるなんて、まっぴら御免だ。


 そうやって、全てに辟易としていた所に、『その男』は現れた。

 体術も、剣術も、圧倒的に僕の上を行く。

 今までは、どんな異能が相手だろうと、【盾】の力で打ち負かせると信じていた。魔物に勝てない分、絶対に人間相手に負けるものか。そう思って戦ってきた。


 そんな僕をやすやすとねじ伏せて見せたこの男は、あろうことか、。純粋な剣術のみで、僕を負かしてみせたのだ。


 この男には勝てない――僕は、生まれて初めてそう思った。


「……なるほど。君は、いい能力を持っているね。もし良かったら……その異能。"正義"の為に使ってみないか?」


 彼は『ルキフル』と名乗った。

 僕は、彼について行くことにした。


 力を与えられた人間が、誰しも正しい使い方をするとは限らない。そんな異能の力を濫用する無法者を始末する、裏の暗殺者。


 異能に対抗できるのは、異能だけだ。けれど勇者たちは基本的に、ダンジョンを攻略することが仕事で、とても無法者たちを裁く余裕なんて持ち合わせていない。

 そして生まれた必要悪の存在。それが、異能専門の暗殺者集団。

 ――通称『アサシンズ・ギルド』。


 僕には異能を無効化できる力があった。【盾】の異能、それはどんな異能の攻撃でも防ぎ切ることができた。勇者にはなれないかもしれない。けれどそれは、異能を悪用する者たちを始末するには最適の異能だった。


 そうして『アサシンズ・ギルド』に入団した僕は、【盾】の異能を生かして、めきめきと頭角を現していった。

 『異能殺しの盾つかいイレギュラー』――やがて僕は、そう恐れられるようになる。


 異能の力を過信し、無法を働く者たち。しかし、彼らは知らない。その異能を防ぎ切る【盾】の存在を。

 自慢の異能を防がれ、驚愕の表情を浮かべる彼らを殺すのに、異能の力なんて要らない。暗殺用の短剣を閃かせ、ただ無防備な首筋を搔き切ればいい。


 僕にとって異能を狩る仕事は、天職だったのかも知れない。けれど、僕の胸の中には、ずっと勇者への憧れが燻り続けていた。


 薄汚れた暗殺稼業に手を染める度に、表の世界で活躍する彼らの存在が輝いて見えた。悪人とはいえ、自分と同じ人間を手に掛けるその行為を繰り返す度に、心が死んでいくのを感じていた。


 だから、きっと、限界だったのだろう。

 暗殺者向きの能力だからって、勇者には向いてないからって……割り切って、勇者の道を諦めることなんて僕には出来ない。

 だから僕は、暗殺家業から足を洗い、勇者を目指すことを決心した。


 当然、仲間たちから引き留められた。


 僕の言葉に、声を荒げて怒る人。

 諦めて応援してくれた人。

 僕のことを責める人。

 心配して、思いとどまらせようとする人。

 そして、信頼して背中を押してくれた人。


 彼らは表面上は捻くれた人たちだったけれど、みんな根はいい人ばかりだったから、彼らなりに心配をしてくれたのかもしれない。


 けれど、僕の決意は固かった。


 最後に、僕をこの『アサシンズ・ギルド』へ誘ってくれた恩人、ルキフルさんに自分の意思を伝えに行くことにした。

 僕の言葉を聞いて、ルキフルさんはしばし残念そうな顔で沈黙していたが……やがて、吹っ切れたように口を開いた。


「そうか……ならば、君の意思を尊重しよう。何しろ君は、この私がスカウトしたの人間なのだからね。……うちのナンバー2の座は開けておく。戻ってきたくなったら、いつでも帰ってくるといい」


 その全てを見通すような目は、きっと僕の苦難を予知していたのかも知れない。

 しかし、僕はそんな全てを振り切って、アサシンズ・ギルドの門を抜けた。


 そして僕は、幼い頃からの夢を追いかけて、勇者候補生を育成する名門、カルネアデス王立異能学院の門を叩いたのだった。



  ◇



 しかし、すぐに僕は、現実を思い知らされることになった。


 魔物との戦い、それは火力がモノを言う戦場だ。

 魔物は人間のようにもろい生き物ばかりではない。だからこそ、そんな魔物の息の根を止めるために、異能は存在している。

 

 防御なんて二の次。とにかく、全身全霊の一撃を叩き込め。そんな戦場に、僕の【盾】の異能なんて無用の長物でしかない。



 そして今日、その日がやって来た。

 討伐対象である甲鉄虫アイアンワームを火力不足で討ち漏らしてしまったのだ。明かに班の火力不足が原因だった。


 僕は班の参謀であるミーシャの指示で、守りに徹していた。それがあの時、僕が最も班に貢献できる立ち回りだという判断だった。けれど、甲鉄虫アイアンワームの硬い装甲を貫くためには、班全体の火力を出し切る必要があったのだ。


 もし、僕の異能が【盾】ではなく、攻撃手段を持った別の異能だったら。結果は違っていただろう。攻撃できる力さえあれば……。


「やっぱり、向いてないのかな……」


 夕焼けの中、寮の自室に戻る途中に、僕はひとりでに呟く。


 結局僕は、今日付けで班を抜けることになった。

 学院に班の離脱届を提出すると、即日受理された。これで僕は、晴れて無所属の落ちこぼれとなったのだった……。



  ◇



「ふわぁ、もう朝か……」 


 翌日の早朝。僕はいつもと変わりなく、同じ時間に起床していた。

 洗面所へ行って顔を洗い、歯を磨くと、学院から支給された制服に袖を通す。

 そして、もはや日課となっている『朝の鍛錬』。


「四百九十七っ、四百九十八っ、四百九十九っ、五百ッ……!」


 腕立て伏せ五百回を終えると、次は腹筋五百回だ。

 考えるまでもなく、体に染みついた習慣で自然と体が動いていた。

 異能アークで劣っている自分が、何とか周りに追いつけるようにと、入学時から欠かさずに行っている日課だった。


 班をクビになった今、意味のないことなのかもしれない。

 それでも、諦めきれない自分がいた。


『諦めなよ。君の異能じゃ勇者になんてなれっこない』

『そんなに努力したって、無駄なのにねぇ』


 僕が努力をしていると、決まって周りは嘲笑混じりの忠告を掛けてきたものだ。

 それでも。きっと努力は報われる。いや、絶対に報いさせてやるんだと、僕は努力を続けてきた。


 『鍛錬』の最後はランニングだ。学院の敷地を五周して、メニューは終了する。


 早朝、霧がかった学園を僕は走っていた。

 霧の奥に見えるのは、巨大な〈カルネアデスの塔〉の影。あれこそがこの学院の象徴であり、あの塔の上を目指すこと、それが僕たちに与えられた使命だった。


 あの塔をどこまで登ったのか、それによってその学生の能力が判断される。そのため、学院の生徒は競うようにしてあの塔の攻略を目指すのだ。

 甲鉄虫アイアンワームと戦ったのも、あの塔の中だった。


 その高さは、雲を突き抜けて、天まで届く程。

 学院始まって以来、誰も頂上までたどり着いたことがないという、難攻不落の巨大迷宮である。


 ひょっとしたら、僕が地上でもがいている今も、頂上を目指して必死に迷宮を潜っている生徒がいるのかもしれない。


 そう思うと、握りしめた右手には自然と力が入っていた。


 ここで諦めたら、きっとこれから先、手の届かないものを見上げるだけの人生になってしまう気がする。だからこそ、なるべく悔いは残したくない。


「もう少しだけ、頑張ってみるか……」


 僕は小さく呟くと、無かったはずの六周目に向けてペースアップする。


 この時の僕は知る由もなかった。今日というこの日に、僕、トーヤ・アーモンドの人生を一変させる出会いが待っていることを……。

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