其の五十五・とある生還者の話(元桑639・睚眦)

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「自分たちが強くなるためなら、あんなに憎んでた敵の獣だって利用するのが、図々しくて人間らしいよね」

 子供は肩をすくめながら言った。

 私たちの同類なんだから、図々しいではなく、せめてしたたかと言い換えようよ、と声の主は微苦笑しながら提言した。

「獣の通り道が囚牛しゅうぎゅうの国と睚眦がいさいの国の境目にあるなら、睚眦の国も関わってないはずはないよね」

 ご明察、と声の主は一つ頷き、傭兵の国は太古から獣に対抗するために、獣の肉を食べるという危険な方法を使ってたんだ、と続けた。

 じゃあ、とある生還者のお話をしましょうか。

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 常に強者たれ、それが傭兵の国に生まれた子供が一番最初に教わることである。

 四歳から戦闘訓練を始め、六歳から戦の供となる乗騎を自ら馴らし、九つの冬に雪に閉ざされた山奥に放り込まれ、一週間生き延びることを課せられる。

 内情を知らないよその国では、それを理に適わない野蛮で残酷な行いだ、と眉を顰めて評する人も多いが、幼い頃から劣悪な環境を生き抜くすべを叩きこまれた子供らは、概ね無事その儀礼を通過することができる。

 十人のうち、手土産になる獲物を提げて意気揚々と生還する子が一人、余分な収穫はないものの乗騎と共に無事帰還する子が二人、乗騎を失いながら生き延びる子が六人、二度と帰ってこられない脱落者が一人、という風に、九割は生き延びることができる。

 体温を奪われない寝床と十分な食料さえあれば、冬の山もさほど恐ろしいものではない。

 乗騎に乗って冬の狩りをこなせなくても、乗騎そのものが一週間分の食料になることに気付きさえすれば――

 

 傭兵の国の王には、二人の息子がいた。

 兄弟は王の息子として多大な期待を寄せられていたが、兄は人の目を引く才覚に欠け、弟は体にあざ――強力な力の所持者である証――を持ちながらも、御しきれない力の反動に苦しみ、歩くことすらままならなかった。

 儀礼を越えたばかりの兄は、自分の経験したことを病床にいる弟に語った。


 雪に閉ざされた山にいる間、ずっと考えていた。この儀礼は強者を作るためにあるのかって。

 兄は弟に語る。

 でも違った。私たちの多くはなんでも守れる強者ではない。切り捨てる決断を迫られた時に、何かを犠牲にして進む覚悟が要ると分からせるために、この儀礼があるんだと、相棒が死んだ時に分かった。

 数年もの時間を共に過ごした乗騎を失った兄は、その感触を思い出すように、何度も手を握ったり開いたりした。


 兄さんはすごいよ。きっとそれは、ぼくにはできないことだ。

 弟は答えた。

 ぼくは怪我すると痛いことを知っている。どれだけ苦しくて心細いか知っている。その苦しみを他のものに押し付けてまで生き延びたくないよ。

 ぼくはきっと、あの山から帰ってこれない一人なんだ、と弟はつぶやいた。


 病弱な息子を治すために、王は獣の肉を手に入れた。

 人の宿敵である獣に対抗するために、傭兵の国の者はその忌まわしい肉を口にすることすら厭わなかった。その毒に耐え切れない者は死に、乗り越えた者は更なる力を手に入れることができると言われている。

 獣の肉がどこから来るものか分からないが、それを食した弟は、まるで今までの成長の遅れを取り戻すように元気になり、体が丈夫になった。

 あざ持ちの継承者が秘めた才覚を呼び覚ました、と周りの人たちは大いに喜んだが、目や髪の色も変わり、内気な性格まで打って変って明るくなった弟を目に、兄はどうしようもない不安を抱いた。


 私の中に、獣がいる――

 幾度もの勝ち戦の後、弟は兄にこっそり打ち明けた。

 

 最初は、日光の差さない見知らぬ土地が見えたり、見かけたことのない奇妙な形の生き物が見えたりするだけだったが、それが日を追うごとに鮮明になり、地上に出たい、居場所が欲しい、との声が頭の中で響くようになった、と彼は話した。

 獣の肉を食べ続けたせいで、いつか獣の意識に乗っ取られてしまうのではないか、と兄は弟の体調を心配したが、弟は何事もなかったかのように微かに笑った。

 獣は集団で行動する生物だから、指揮を執る時の立ち回りがうまい。本能で戦うすべを知っているから、戦の時に任せればまず負けない。私の中にいる獣は、私にできないことを代わりにしてくれるのだ。

 周りの人間に尊敬されているのも、戦で勝ち星を上げているのも、私の中にいる獣で、本当の私は、今も病床に寝転がったままだ。

 強い者が弱いものを犠牲に生き延びるのが世の常なら、私こそこの体を獣に明け渡すべきだろうね――

 自嘲するように話す弟の表情は、幼い頃と何ら変わらなかった。


 兄は決意した。今も雪山の奥に閉じ込められている弟の心を、外に連れ出さねばならない。

 兄は思い返す。自分がどうやって雪山の外へ出られたのか。

 劣悪な環境に恐れをなした。

 無力な自分が情けなかった。

 飢えと寒さが苦しかった。

 相棒を失った悲しさに溺れそうになった。

 仲間の血肉を飲み込み、生きて帰る義務感に駆られた――


 兄ははっと気づいた。

 弟は優しいわけでも、弱いわけでもない。

 選択の痛みを感じたくないから、選択することを放棄した。

 背負うものがないから、前へ進めず、簡単に逃げ腰になるんだ。

  

 彼が人でいつづける重みを与えねば。

 乗騎ごときでは軽すぎる。

 獣の毒まで御して我が力とするあざ持ちには、国を背負わせるくらいがちょうどいい。

 幸い、兄である私さえ、彼は正当なる継承者となる。


 弟には、伝え忘れたことが一つあった。

 九つの冬、どんなにひもじくても相棒を殺すことを選べない彼の思いを見透かしたように、寄り添っていた乗騎は突然立ち上がり、狂ったように岩壁に頭をぶつけて、倒れて死んだ。

 あの山から帰ってこれない一人になってもいいと思ったのは、兄も弟も同じだった。


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 数年後、兄弟は囚牛の国から新興宗教団体の討伐依頼を引き受け、兄は死亡し、弟は新しい国王となった、と声の主は締めくくった。

「あの兄弟の子供の頃の話だったのか、やっぱり兄が死んだのは偶然じゃなかったんだ」

 子供は考えこむようにうーんと唸った。

 弟が踊り子に惚れ込んだ瞬間から、すでに生きる覚悟ができたのかもしれないのに、この上兄が敢えて死を選ぶ必要はないと思うけどね、と声の主は冷めた口調で意見を述べた。

「でも、弟に届いたのは赤子と、兄が死んだ知らせだけだったよね、その死体を実際に誰かが見たりした?」

 国からいなくなっただけで、死んだとは限らないじゃないかな、と子供は述べた。

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