其の十七・とある彫師の話(元桑296・螭吻)
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生贄を意味する英単語「scapegoat」は、山羊に人々の罪を背負わせて野に放ち、その罪を清算する行為から生まれた言葉だから、「贖罪の山羊」とも訳されるんだ、と声の主は話した。
「でもよく考えればおかしな話よね、罪を犯した人が償うのならわかるけど、関係のない山羊にそれを押し付けて、さらに代わりに苦しめだなんてさ」
子供は首を傾げながら意見を述べた。
確かに君の言う通り、願い鳥の事件は元凶というものは存在しないかもしれない。でも、ただでさえ天災が重なって人々が余裕をなくしたところに、願い鳥が人を襲う事件が起きれば、人々の怒りは自然と
じゃあ、とある彫師のお話をしましょうか。
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大けがを負って気を失った子供が川上から流れてきた。
それを見つけた男は彼を助け、けがの手当てをしたが、目を覚ました子供は記憶をなくし、何故けがをしたのかはもちろん、自分が誰なのかすら思い出せなかった。
過去を持たない子供は、下働きとして男について行くことになった。
龍神信仰が根付いたこの大陸には、龍にちなんだ刺青を入れれば守護神の祝福を受けられる言い伝えがあり、腕のいい彫師はどの国の王侯貴族も喉から手が出るほど欲する貴重な人材だった。
国々を渡り歩く一族の一員である男は名の知れた彫師で、彼が刺青を入れる時、子供はそばで器具を揃え、彼の指示に従って雑事をこなしながら、彼が腕を振るう様を見た。
男は龍の全身を描かず、いつも節だった角や、伸ばしかけた爪など、体の一部のみ形どる。
いや、男の手元から広がった世界は、「形どる」という言葉では到底形容しきれない迫力を持っていた。
誰も見たことのない龍の守護神は確かに薄い肌の下に宿り、今にも皮膚という薄い隔たりを突き破り、現れようとしているようだった。
子供は目にしたものに圧倒された。
私を、弟子にしてください!
男の腕に魅入られた子供は懇願した。
彫師は、誰にでもなれるものじゃない。君の器を試させてもらおう。
彫師の男は目を細めながら答えた。
龍を彫るには、器具や腕よりも、龍神を知らなければならないという男は、子供を連れて方々の国を訪れた。
彫師は国に属さない一族に多いのは、どこかの国に縛られ、上下関係などで目を曇らせないためなのだ、と子供は教わった。
男の類を見ない腕を見込んで頼み込む貴人は後を絶たないが、彼はめったに依頼を引き受けない。自分の目にかなう相手でなければ、どんな大金を積まれても決して首を縦には振らなかった。
国の舵を取る才覚と胆力を持ち合わせている者じゃなければ、分不相応の祝福はやがて呪いとして身を滅ぼす。だから彫師は、その刺青を背負える者を見定める必要がある、と男は子供に教えた。
知れば知るほど、子供は男を尊敬し、あこがれた。
記憶のない子供は、たくさんの人間と出会い、いろんな国に関する知識をどんどん吸収していった。
どの国にも独特な習慣やこだわりがあった。我を通すばかりでも、従うばかりでもうまくいかない。互いを尊重し合い、模索していかなければならない。
子供は旅の中で謙虚で聡明な少年に成長したが、まだ男から弟子入りの許しは出なかった。
最後に訪れた
数年前に起きた内乱を題材にした芝居は、当時幼く即位した子供の王の横暴っぷりを人々に訴えた。甘やかされて育った子供の王様は横柄で傲慢、人を苦しめて楽しむ悪童で、彼のせいでたくさんの民がむごい死を遂げた。
舞台上の小さき暴君の行いを見て、少年はひどい頭痛に襲われ、その場で気を失った。
再び目を覚ました時、少年は過去を思い出した。
無知で残忍で、周りの人間を玩具扱いした。好き勝手にやった結果、国中の人間から疎まれ、憎まれ、追われ、命からがら逃げ出すも、傷だらけのまま川に落ち、通りすがりの彫師に助けられた……
暴君を追い出したこの国の王座は、今も空のままだ。それでも君は、彫師になりたいか。
過去を思い出した少年に、男は淡々と問うた。
少年は償わなければならないと思った。
彼にはかつて従兄が一人いた。幼い頃その人に王座を取られるのが怖くて、背中を切りつけて大けがを負わせ、国から追放した。今や王族の血が流れている者は、自分を置いて彼しかいなかった。
少年は彫師の男に助力を乞って従兄を探し、彼に王位を譲ろうと決意した。
しかし半年かけてやっと突き止めたその居場所には、墓だけがぽつんとあった。
彼の従兄は国を追われ、異国で息を潜めて暮らし、流行り病で誰にも知られずに死んだ。
少年は、昔日の自分が犯した罪の重さを知った。
やっぱり私は彫師にはなれません。
少年は長年自分の世話をしてくれた彫師に頭を下げ、護身用に持ち歩いていた刀を渡した。
俺に引導を渡せとでもいうのか。
男は冷笑に唇をゆがめた。
私が従兄にしたように、その刀で私の背中を切ってください。
これが私の償いです、と少年は決然と言った。
螭吻の国に、新しい王が即位した。
国を蹂躙した暴君に切られ、追放された彼は国を憂い、王族の責務を果たすべく戻ったのだという。
彼の背中には、みにくい刀傷を覆うように、龍の背中の刺青が施されていた。それを見た臣下たちは、誰もが賛嘆の声を上げた。
なんという見事な刺青でしょう。龍の背中とは、まさにこの国を背負うお方に相応しい、実にすばらしい守護神の祝福ですな!
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蒲牢の一族が迫害される中、螭吻の国だけは彼らを守るために国を開いた。蒲牢の一族こそ交流を促し、国々を繋ぐ重要な役割を果たしている、と螭吻の国王は他国との対立も畏れず、主張を貫き通した――
声の主は締めくくった。
「座長の娘が演じた暴君って、彼のことだったんだね」
同じ時代に生きていたんだ、と子供はしみじみ感慨を漏らした。
もしかしたら、王様の主張も本当はただの建前で、ただ恩返ししたかっただけかもしれないね、と声の主は茶化した。
「彼は悪いことにちゃんと立ち向かえるいい王様だよ、だってあの彫師が刺青を入れた人なんだよ」
彫師の器じゃなかったかもしれないけど、いい王様の器だったんだ、と子供は付け足した。
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