其の三十九・とある病人の話(元桑395・狴犴)
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政略結婚を巡ってひと騒動あった
「なんで結界の力が出なかったのだろうね」
子供は首を傾げて聞いた。
国同士の通婚が始まって百年ほど経った頃、守護神の力を持っている者同士の間に生まれた子供の素質が圧倒的に母方の系統に偏る傾向にあることを、人々は気づいた。結界の力が出なかったのも、それが原因だと考えられた、と声の主は説明した。
「ほかの国はうまくいっているの?せいりゃくけっこんってよく漫画にあるけど、好きな人と結ばれなかったり、知らない人と結婚させられたりする話多いみよね」
では、とある病人の話をしましょうか。
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格式の高いお家に生まれた子供がいた。
彼の父親である当主はとても厳しい男で、周りの人たちに恐れられており、血も涙も冷血漢だと陰口をたたく使用人も、一人や二人ではなかった。
父を嫌うあまり、使用人たちは息子の彼に接する時もよそよそしかった。
広い屋敷の中にいて、子供はいつもひとりぼっちだった。
父がお勤めで留守にしているある日、子供は一人屋敷の中で凧あげで遊んでいた。うっかり転んで手を放してしまい、風にあおられた凧はひらひらと高い塀の内側へ落ちていった。
そこは、屋敷の一番奥にある離れだった。
離れには決して近づいてはならない、と父に厳しく言いつけられていたが、自分を見ている人は誰もいないことを確認し、彼は塀によじ登り、内側へ飛び降りた。
あら、ずいぶんかわいらしい泥棒さんが入ってきたわね。
尻餅をついた痛みを我慢していると、柔らかい声と共に見知らぬ女が目の前に現れた。驚きで目をぱちくりさせた彼を助け起こし、女は服についた埃を払ってくれた。
あなたは誰ですか。何故離れにいるのですか。
聞きたいことは山ほどあったが、女が出してくれたお菓子が美味しすぎて、彼は夢中になって食べた。食べ終わってから、女がずっと自分をにこにこして見つめていることに気付き、照れくさいやら恥ずかしいやらで、彼は口をつぐんだ。
落ちて破けた凧を、女は直してくれた。
ちょうど暇を持て余していたところなの、父上が戻ってくるまで話し相手になってくれるかしら。
優しい微笑みを湛え、女は彼と言葉を交わした。
父と過ごす時間がほとんどなく、使用人たちにも腫物扱いされている彼に笑顔で接してくれる人は、彼女だけだった。最初は戸惑ってうまく返事できなかった彼も、少しずつうまく話せるようになった。
今度からは、ちゃんと戸口から入ってきてくださいね。
塀によじ登って帰ろうとする彼に、女はにこやかな笑顔を浮かべながら手を振った。
女ともっと話したくて、次の日も子供は離れへ向かったが、塀を回って探し当てた扉は太い鎖に巻かれ、厳重に封じられていた。
なぜ女は離れの中に閉じ込められているのか、子供はその訳を知りたいと思ったが、言いつけを破ったと父には悟られたくない彼は使用人を捕まえて、離れのことをたずねた。
私共は誰も離れに入ったことはないから分りません。
明らかに言葉を濁している使用人は、彼の神経を逆なでした。
何故目を合わせてくれないのだろう。何故私に優しくしてくれないのだろう。
かんしゃくを起こした彼は、手当たり次第に物を使用人に投げつけた。
嘘をつくな!分かってることを言えよ!言えっ!
離れには病人が住んでいると聞きました。重い病気を抱えているから近づくなと旦那様から言われております。
私が話したとは何卒ご内密にお願いします、と頭から血を流した使用人は震えながら平伏して乞った。
子供はそれからも父に内緒で離れを訪れていた。
会いに行っているうちに、離れに住んでいる女の言動のちぐはぐさに気付き始めた。
ここは父と共に暮らしている家だ、と彼女は言うが、実際には彼の父が持っている屋敷の離れだ。彼女の話に出てくる家族のみんなも、一度も見たことはなかった。
この離れは彼女の世界のすべてで、彼女はここでいもしない友人や家族と共に暮らしている。
そうか、これが彼女の抱えている〈病気〉なんだ――
幼心にもなんとなく察せた。
それでも、彼女が誰もいない空間に話しかけたり、歌を歌ったりする姿を見ても、彼は怖いとは思わなかった。彼の頭を撫でてくれる手のぬくもりが心地よくて、歌声は聞いていて幸せな気持ちになるほど美しいからだ。
好きな人がいるの。彼は迎えに来ると約束してくれたから、待っているのも楽しいのよ。
女は秘密を分かち合うように、彼にこっそり打ち明けた。照れて幸せそうな笑顔を見て、彼の心が少し痛くなった。
治ってほしいけど、病気の治った彼女が待ち人は来ないことを知れば、きっと悲しくなる。
迎えが来なければ、私が連れ出してあげればいいんだ――
小さな願いが彼の心に芽生えた。
十四の年に、子供は成人の儀を迎えた。大人の服に改め、長かった髪を切り落とし、護身用の武器の携帯を許された。
彼は成人の儀が終わるなり、離れに向かった。誰も彼もが自分に無関心な屋敷の中で、唯一彼の成長を見守ってくれた彼女に、大人になった姿を見せたかった。
しかし期待とは裏腹に、塀から飛び降りた自分の姿を認めた女は、驚愕に目を見開き、そのままその場に立ち尽くした。
……い。
いつもの柔らかい笑みがすっと消え、ぽつりと言葉をこぼす女の顔は、恐ろしいほど冷たい憎悪の情に歪んだ。
憎い。
彼女の言葉に、彼は耳を疑った。
憎い。憎い。許さない。許さない。殺してやる。殺してやる!
彼女は血走るような唸りを上げ、髪を振り乱して襲い掛かった。いつも頭を撫でてくれた白い手は、力の限り彼の首を締めあげた。
騒ぎを聞きつけた使用人は、女に殺されかけた彼を助け出した。
事の顛末を知った父親は彼を叱りつけ、二度と離れには近づくなと命じた。
あれは病気の発作だろうか。
まるで別人に豹変した女の悲痛な叫びは、ずっと彼の耳元から離れなかった。
殺してやる。殺してやる。***、あなたを絶対に許さない。
意識が途切れる寸前に聞こえたのは、父親の名だった。
その昔、旅の一座がこの土地を訪れた。一行の中には若い娘がおり、彼女の歌声は閉じた蕾を花開かせるほど美しかったという。この土地で一番偉い家の若旦那は娘をいたく気に入ったが、娘には思い人がいて、彼に振り向くことはなかった。
面子が潰された若旦那は激怒し、旅立った一行が山道を通る時に、上から大きな石を投げ落とした。
落石から唯一生き残った娘は、大事な家族の死を受け入れられず、気が狂ってしまった。事故のことを忘れ、過去の記憶の夢に閉じこもった。
それでも若旦那の顔を見た時だけ、娘は家族の死を思い出し、彼をののしり、呪詛の言葉を吐きかけた。
若旦那は思惑通り娘を手に入れ、屋敷の奥に閉じ込め、子を産ませた。やがて顔を合わせる度に暴れ出す娘に飽きると、高い塀に囲われた離れに放置した。
使用人は最初こそ口を閉じていたが、爪を何枚か剝がしているうちに過去の話を引き出せた。
成人の儀を経たあんたの姿は若い頃の父親そっくりだから、彼女は敵を討とうとしただろうよ。やっぱ子は親に似るもんなんだな。
彼女の手で殺されておけばよかった、と脂汗をたらしながら忌々しげに吐き捨てる声が耳障りで、いらついた彼はその使用人の指を切り落とし、そのまま父の元へ向かった。
ぽたぽた。すたすた。
私は父親とは違う。この体に忌まわしい血が半分流れていても、もう半分は、母親が分け与えてくれたものだ。
そう思うだけで、彼の足取りは軽やかになった。
すたすた。ぽたぽた。
私は父親とは違う。父親はあのやさしく微笑む顔を憎しみに歪ませたが、私はそんな顔にはさせない。
まっすぐ離れを目指して歩き、彼は母親の笑顔を思い浮かべた。
ぽた。ぽた。
私は父親とは違う。父親は彼女を縛り付けていたが、私は彼女の願いを叶えて、解放してあげるんだ。
離れの扉を前に立ち止まり、彼は扉に巻かれた鎖を断ち切り、中へ踏み入れた。
お母さんは、喜んでくれるに違いない――
片手に引き下げた首から、ぽたぽたと血が滴り落ちた。
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狴犴と蒲牢の血が流れている彼はやがて親殺しの罪で罰せられるけど、並外れた能力を買われ、下位の武官になる。その孫娘は狴犴の国の王家に嫁ぎ、また更に何代後に生まれた子孫は狴犴の王位を継いだのだった――
声の主は締めくくった。
「……彼のお父さんが女をずっと閉じ込めてたのは、彼女の持っている力が欲しかっただけ?それなら、彼が生まれた時すぐに彼女を殺してもおかしくなかったのに」
子供は疑問を呈した。
どの道、その父親は女も、自分の子供もひどく傷つけた。自分から種をまいて、最後には報いを受けて死んだ、因果応報ということじゃないかね、と声の主は言った。
ふーん、と子供は分かったような分からないような相槌を打ち、「結局女の人は離れから出られたの」と聞いた。
本当の願いが叶ったら、出られるんじゃないかな、と声の主は明言を避けて答えた。
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