海へ
糸目未彩
海へ
電車の扉が開く音がして、ふと目が覚めた。そこで初めて寒いことに気がつき、身体を縮こませる。すると隣に座っていた会社員らしい男性は足を広げ、しっかりと区切られていたはずの空間を侵食してくる。男の足を膝で押し返しながら、電車のアナウンスに耳を傾ける。どうやら自宅の最寄り駅はとうに過ぎていたらしい。
手に握りしめたままの携帯電話の画面は、春の夜風に当たって冷えきっている。傾ければ画面が光り、夜の九時を回ったばかりだと僕に伝えた。耳に慣れた駅名が聞こえたので、僕は鞄を背負って立ち上がった。
改札を抜け、高校生の頃に散々歩いた道を進んでいく。高校の一駅先にあるここは、僕と彼の思い出の場所だ。通話履歴を遡り、サクの名前を押す。コール音がしばらく鳴り、やがて途切れた。
「もしもし」
波の音が微かに聞こえた。いや、海はまだ遠いはずだ。海にいるのか、という問いに返事はなかった。
久しぶり、最近はなにしてたんだ。俺は大学に通ってるよ。そんな楽でもないけど、まあ楽しいかな。サークルはなにも。え、もう走らないのかって? うーん、まあ、気が向いたらね。
少ない街灯と月明かりを頼りに、僕は少しずつ海へ近づいていく。やがて、はっきりと波の音が聞こえた。
「あいたいな」
砂を踏んだら、靴の中に入ってきて気持ち悪い。夜の海は、闇みたいだと懐かしい声が告げる。
携帯電話を耳から離した。画面はとっくに暗くなっている。
揺れる闇をしばらく見つめ、僕は大きく息を吐き出す。
駅まで、少しだけ走ろう。君がいない分、張り合う必要もないから、少しゆっくり走るよ。また来年、と心の中で呟き、僕は砂浜を蹴った。
海へ 糸目未彩 @itomemisa
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