こわれたとびら

 美沙は柚子の香りがする出汁に豚ロース肉をくぐらせて火を通しました。

「ん~ おいひぃ~」

「それは良かった」

 美沙の向かいに座る海は微笑みながらそう言って、豚バラ肉を白出汁にくぐらせていました。

「でも、どうして急に二人でしゃぶしゃぶ?」

「美沙に借りを返すためだよ。貸してもらった記憶ないけど」

「えっと……今月の初めに言ったような? もしかして、本気にしたの?」

「当たり前だろう!」

 あれは冗談で言ったのに海という男は本当に律儀な男だと思いました。

「本当に優しいよね」

 この優しさをもっと早く知っていたら……この続きが頭に浮かびそうになりましたが何とか思いとどまりました。

「何か悩み事か?」

「そんな訳無いでしょ。そんな訳無いって」

「ちょっと隣に行くな」

「え、え? 何?」

 いきなりの事に戸惑う美沙をよそに宣言通り隣にやって来た海は美沙の両頬にそっと触れました。

「か、海?」

「すー、はー」

 何を思っているのか、海はゆっくりと深呼吸を始めました。

 そして、

「悩んでいることがあるならいつでも俺に相談しろ」

「ひょ、ひょっほ! ひひゃい」

 海は美沙の両頬をつまむと、上下左右に引っ張りながら真面目な顔でそう言いました。

 美沙はその顔が……これ以上は考える事が、考えたくはありませんでした。

「まただ。また、その表情をしている」

 海は美沙の気持ちを見抜いているようでした。

「その表情をする限りやめないからな」

「ひゃめひぇ」

 やめて。これ以上続けたら他のお客さんに美沙と海が……おバカなカップルだと思われてしまう。

 そう思っている間に海は美沙の頬から手を離していました。

「なんで?」

「なんか、大丈夫そうに見えた……から?」

 理屈はよく分かりませんでしたが、美沙はホッとしました。それと同時に美沙の本心を閉じ込めていた扉が壊れてしまったのを感じました。




美沙  「明日香」

美沙  「ごめんね」

明日香 「何の話?」

美沙  「ううん、何でもない」

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