特別室の前で

 上層区と管理区を隔てる扉を開き、いくつかの決められた方法を取って二階へと進む。実際のところ、その決まりごとというのは守っても守らなくても問題のないようなものが多かったが、アオは一種の怠惰によりそれを厳守していた。ハレルヤが決めたことなのだから、意味がないように見えてもやらなければならない。そういう価値観の元、二階に続く階段に右足から乗せる。


 管理区の中には複数の階段や昇降機があって、それぞれ役割が決められていた。それ以外に使われることなど想定すらしておらず、実際、非常用階段なんてものはいつも暗い階段室の中に閉じこもったままである。だがきっと、それを使わなければならない事態が起きた時は、皆がそこに殺到するのだろう。アオはそう考えてから、自分の考え方があまりに偏っていることに気付いて辟易した。


「アカネがあんなこと言うから」


 そこにいない者に責任転嫁をするように呟く。政策を適用するために操作室に向かいながら、とりとめのない思考を続けたのは、アカネのことを思い出すのを避けていたためだった。どうして避けていたのかと言えば、理由は至極簡単で、彼女の「相談」とやらに耳を傾けてやれなかったことが気にかかっていたからである。悪いことをしてしまったのではないか、と罪悪感にも似た何かが心の中に巣食っていて、アオはどうにかそれから意識を逸らそうとしていた。


 アカネは自分で自分のことを「劣等生」と表現した。その評価は間違っていないはずだと、アオも思っている。先程ミスが言ったとおり、アカネと一緒にいるのは「非効率的」なのだろう。だがアオはアカネから離れようと思ったことはなかった。


 アカネはソラとよく似ていた。裏表がなく、アオのことをアオとしてしか認識しない。優秀な人間だからと途中から擦り寄ってきたり、嫉妬と羨望の混じった舌打ちをする者がいる中で、アカネはずっと変わらなかった。だからこそ、下層区に行った日にアオはアカネの部屋で一晩を過ごす気になった。何があってもアカネは自分の傍にいてくれるだろう、という確信があったためである。


「相談って何だったんだろう」


 アカネがわざわざアオに言うぐらいだから、それ相応の理由があったことは想像に難くない。だがここ数日で、何か悩みがあるような予兆は見受けられなかった。いつものように一緒にイグノールを使って政策の試行をしていただけである。

 あるいは、とアオは考えた。アカネは自分の政策を改善したいと思ったのではないか。周囲からの評価に耐えられなくなり、少しでも良い成績を残そうと奮起したのかもしれない。だとすればアオに相談したのも頷ける。


 もしそうだとすれば、何から教えれば良いだろうかとアオは考えた。隣同士で座ることが多いので、アカネがどういった政策をしているのかは目にしたことがある。「支離滅裂」という言葉が非常によく似合う内容だった。大きな工場を片っ端から排除したり、区の境界線を崩そうとしたり、酷い時には管理区すら潰そうとしていた。もちろん、イグノールでそのような操作が受け付けられるはずはないので、エラーが表示される。エラーで真っ赤になった画面を横で見たのは二度三度ではない。少し前、「まるで更地にしてるみたいだね」とアオが言ったら、アカネは「そうだね」と事も無げに返したことがある。きっと元からあるものを利用するのが不得手なのだろう、とアオは考えていた。


「練習モードで操作を見てあげればいいかな。アカネだって上層区なんだから……」


 独り言を言いながら歩いているうちに、二階の廊下の先にある特別室の前まで来ていた。慌てて足を止めたアオは、カードキーを取り出す。これも慣れた手順だった。間違えるはずもない。カードリーダにカードをかざして解錠しようとしたその時だった。何かの匂いが鼻をついた。馴染みのない、しかし知っていると断言出来る匂いだった。考えるより先に、直感で背後を振り返る。そこにいたのは自分だった。


「……は?」

「よぉ」


 自分と同じ顔をした、同じ格好のそれは、笑顔を浮かべて片手を挙げる。アオは一瞬考えた後、体内の血が一気に引いていくのを感じた。


「何してるの、ソラ」

「お前の真似ー。似てる?」


 楽しそうに言う片割れに対して、アオは焦燥を顔に浮かべていた。下層区の人間が二階に入っている。それだけで大問題であるのに、その人間は自分と同じ格好をしている。誰かに見られたら厄介なことになるのは明白だった。

 アオの内心を知ってか知らずか、ソラは脳天気に服の裾を持ち上げてみせる。


「よく出来てるだろ? ほら、この前来た時に……」

「黙って!」


 周囲を素早く見回し、誰もいないことを確認すると、咄嗟にソラの右手首を掴んだ。自分より少し筋肉がついている腕が反射的に痙攣したが、構わず強く握りしめる。そして空いた手で特別室の扉を解錠すると、ソラの体を引きずるようにして、二人して中へと飛び込んだ。

 

 

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