第26話 雨模様

 その日は、忙しくも変わらない一日のはずだった。


 朝、ルヴィは森に入るために、いつものように家を出た。見上げた空はひと雨きそうな重い雲に覆われている。


「ルヴィさん、お気を付けて」


 見送りに出てくれたエミリーへと振り返る。

 同時に視界に入るのは、村の規模を考えれば立派な家だ。


 村の目印でもある村長の家。村の蓄えはかなり減ったが、大工には良い家を建ててもらった。

 当然、ルヴィの家ではあるのだが、質素な暮らしが長かったルヴィにはまだ少し落ち着かない。


 家を出る度に、あるいは帰って来る度に、ついつい真新しい屋根を見上げてしまう。


 これが不釣り合いだと思っている内は、まだまだ未熟なのだろうとルヴィは自嘲する。

 だが、いつか慣れるだろうとも同時に思う。人はそういう生き物だ。


「エミリー、雨が酷くなるようなら早く帰ってくる。留守は頼んだ」


「はい。行ってらっしゃい」


「行ってきます」


 エミリーに見送られて村の中を進む。冬になれば森の魔物も姿を隠すため、今の内に肉を確保しておきたかった。


 仕掛けた罠の場所を脳裏に浮かべながら足を進ませる。途中でロイとハウエルに出会った。


「ロイ、ハウエル、これから畑か?」


「おう、今日は芋の収穫だ。雨が降る前に掘らねえと」


「雨に濡れては早く傷んでしまうのでな」


 すっかり農家の顔になった2人は難しい顔で空を見上げた。ルヴィも灰色の空を見上げ、湿った空気の匂いを確かめる。


「雨は……たぶん降っても昼頃だ。それまでに仕事を終わらせるといい」


「いつもながらよく分かるな」


「うむ。さすがはルヴィ殿だ」


「雨の匂いは分かり易いからな。まあ、昔は次の日の天気まで当てる爺様もいたもんだ。そんなにたいしたことじゃない」


 ルヴィは狩人としての勘でなんとなく先の天気が分かる。雨が降る前には雨の匂いがするものだ。

 加えて雲の形や色などを見れば、だいたいの時間までは見当がついた。


 ただ、あくまで“何となく”だ。雨の強さまで完璧に予測することはできない。


「カルヴィンにも教えたいが……もう木を刈りに行ったみたいだな」


 早朝と言っていい時刻だが、村の外れからは既に樵の音が届いて来ている。


「子供がもうすぐ産まれるってので、じっとしてられねえみたいだぜ」


「家の中でうろうろするなら働いてこい、とフィリダ殿に追い出されたようだ。私には妻子がいないので分からないが、きっと簡単には落ち着けないものなのだろう」


 カルヴィンとフィリダの子は、もう産まれてもおかしくない時期になっている。

 今は3日に一度、隣の村から産婆を呼んで診てもらっている状況だ。


 もしフィリダが産気づいたら、すぐにカルヴィンが産婆を連れに走ることに決まっている。

 隣の村までは距離があるが、元銀級冒険者のカルヴィンであれば短時間で踏破が可能だ。


 産婆が間に合わないことを考えて、シエラとエミリーは産婆から出産に関する教えを受けている。

 この村で出来る準備は行っていた。あとは子の無事を精霊に祈るのみだ。


「ルヴィ村長、雨のことは俺たちからカルヴィンに伝えとくぜ。狩場とは方向が逆だろ?」


「助かる。カルヴィンが病の気をもらうとは思えないが、気を付けるように言ってくれ」


 もうすぐ父親になるのだ。体調を崩して子供に会えないのでは目も当てられない。


 ロイとハウエルに伝言を頼み、ルヴィは森へと向かう。フィリダのことは心配だが、ルヴィにできるのはいつも通りに働くことだけだった。




 村の中、カルヴィンとフィリダの家には女性陣が集まっていた。


 部屋の中心では、フィリダが椅子にゆったりと座り、豆の鞘を丁寧に剥いている。


 フィリダの正面でアニスが同じ作業を進め、少し離れた場所ではエミリーが帝都へ売る薬草を乾かしていた。

 シエラは台所で森の果物を使ったジャムを煮込んでいる最中だ。


「フィリダ姐さん、赤ちゃんの名前はもう決まったっすか?」


「まだだねえ。あの人が決めたいって張り切ってるから任せてるけど、全然ダメみたいだよ」


「むー、そろそろ名前で呼んであげたいっす」


「ははは、まだ男か女かも分からないからねえ。間違って呼ばれてもこの子も困るさ」


 フィリダは穏やかに笑ってアニスを見た。自分より年下ができて嬉しいアニスはよくフィリダと行動を共にし、最近では姐さんと呼ぶようになっている。


「どちらでもきっと可愛らしい子ですよ。フィリダさん、体調に変化があったらいつでも言ってくださいね?」


「ありがとう、エミリー。でも今日はすごく調子がいいんだよ。朝起きるときもね――」


 女性陣の雑談に花が咲く。ジャム作りが終わったシエラも途中から加わった。


「みなさん、お茶と一緒に出来立てのジャムはいかがですか?」


 当然のように、反対する者はいなかった。


 少しの甘味を楽しんだ後は、再び仕事に精を出す。ただ、雑談が止まることはなかった。


「3人とも、わたしばっかり手伝ってもらって申し訳ないねえ。この子が産まれたら、今度は私が協力するから、自分のことも考えるんだよ?」


「自分のことっすか?」


「はっはっは、アニスにはまだ少し早いかもしれないけどね。子供が欲しくなったら遠慮しなくていいってことさ。ねえエミリー」


「ごほっ」


 エミリーがお茶にむせた。


「ど、どうして私は名指しなんですか?」


「エミリーは変なところに気を回すからねえ。まだ忙しいからって言うんだろう?」


「それは……だって、来年から村の人を増やすことに決まって、みんな忙しくなりますし……」


 消え入りそうな声でエミリーは言った。フィリダは呆れ顔だ。


「いいかいエミリー、踏み出すのを怖がってちゃあ幸せにはなれないんだよ」


「エミリーさん、大丈夫ですよ。迷う必要はないと思います。助けが必要であれば、微力ですが私も協力いたしましょう」


「うぅ……ありがたいですけど、そういうシエラさんはどうなんですか?」


「私の心はとうの昔に決まっていますので」


 澄ました顔でシエラは言った。エミリーに味方はいないようだ。いや、むしろ背を押そうとする味方ばかりだった。


「エミリーさんの赤ちゃんも絶対可愛いと思うっす!」


 笑顔のアニスに言われて、エミリーは赤くなった顔を両手で隠した。





 森の中でルヴィは足を止めた。厚い雲で太陽は見えないが、時刻は昼前だ。雨はまだ降っていない。


 見回った罠は全て不発だったため、薬草だけ摘んで村へと帰る途中だった。


「車輪の音……? この数は……」


 ルヴィは薬草を入れた籠を放り出し、地面に耳を当てた。狩人の鋭い聴覚が、村へと近づく存在を聞き分ける。


 馬の足音が10頭分。馬車は4台。この時点で行商人ではない。また、役人である可能性も低いとルヴィは考える。


 正式な村ではない場所に役人が訪れる理由はなく、来るとしてもこんな大所帯であるとは考えにくい。


「誰が、何の用だ?」


 ルヴィに心当たりはない。

 まさか、こんな僻地に盗賊が来るとも思えなかった。盗る物などほとんどないのだ。


 疑問は尽きない。ただ、考える前にルヴィは走り出した。


 答えは自分の目で確かめた方が早い。そして、村を害するものならば……。


「……」


 ルヴィは無言で背負った弓に触れた。




 風のように森を走り、ルヴィは村に続く道へと躍り出た。


 視界には、蹄を鳴らして馬車を牽く馬の姿が大きく映る。

 四頭立ての立派な馬車が一台。残り3台の馬車は、その馬車を守るように囲んでいた。


 道を塞ぐように、ルヴィは中央で仁王立ちになった。


 馬車が速度を落とし始め、ルヴィのすぐ前で停止する。目の前で鼻を鳴らす馬は良い毛並みをしていた。

 中央の馬車は並みの大きさであるものの、一目で高級であることが窺える。さらに、紋章の描かれた旗が揺れていた。


 そして――御者がルヴィを見る目。道端の石を見るような目には覚えがある。


(貴族の一行、か? 何故ここに……)


 ルヴィは警戒を最大まで引き上げた。何がどうなっているのかはさっぱりだが、ロクなことにならない確信があった。


「おい貴様、何者だ」


 御者が高圧的に誰何すいかする。ルヴィは自分の台詞だと思ったが、顔には出さなかった。


「この先の村で長をしている者です。何か御用でしょうか」


「ふん、村長だと? その恰好で森に入る者がか?」


「元々は狩人でしたので」


 じろじろと御者はルヴィを睨むように見る。


「しかし、この先の村は数年前に滅んだはずだ」


「……今は、その村の復興を行っています。私はかつての村の生き残りです」


 ルヴィの言葉と同時に、ふわりと風が吹いた。


『ほっほ、そうか、生き残りがいたか』


 耳元で急に聞こえた声に、ルヴィは一瞬で身構えた。視線を巡らしても、周囲に声の主の姿はない。


(風の魔術……声だけ送ってきている)


『墓守の一族は潰えたかと思ったわい』


 声の主を探る動きは、聞きなれない言葉で中断される。墓守とはなんだ?


『しかし、これは少し面倒になった。――秘密を知る者を消す手間が増えるでな』


 聞き返す暇もなく、ルヴィは身を裂くような暴風に襲われた。

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