第609話 神からの巣立ち

「アイリス! 先生とマホさんを抱えて飛び降りろ! 巻き込まれるぞ!」


 俺が言い終える前に、アイリスはすでに二人を抱えて跳躍していた。

 高らかに跳んだアイリス。二人の叫び声が聞こえる。

 そして三人は、城塞の縁を飛び越え、空から真っ逆さまに落ちていった。


「さぁ、どうする……?」


 この崩壊を止めるにはどうすればいい?

 落ちても被害が出ないよう、浮遊大地を粉々に粉砕するか?

 それとも一つ残らず宇宙に打ち上げるか?

 だめだ、どちらにしても時間がかかりすぎるし、余波で地上にまで影響を与えかねない。


 こんな時〈妙なる祈り〉があれば、どうとでもできるってのに。

 神を超えたと言っても、今の俺はただ無敵で最強なだけの男にすぎない。こういった繊細な作業には向いていないんだ。


 焦る俺の袖が、ちょいちょいと引っ張られる。

 横を見れば、のっぺら少女が俺を見上げていた。


「どうした?」


 何か言いたげだ。

 あ、もしかして。


「方法があるのか? この崩壊を食い止める方法が」


 のっぺら少女は首肯すると、小さな手を天へと掲げる。

 数秒後、コッホ城塞を揺るがしていた振動がぱたりと静まった。


「止まった……のか?」


 大きくなり続けていた罅割れや、大地の分割が、まるで時が止まったように動かなくなった。


「そうか。キミの能力」


 この世界に戻ってきた時、時の進みの遅い場所で訓練に励んだ。あれは、この子の力で時間を引き延ばしていたから。

 つまり崩壊が止まったのではなく、崩壊の進みがめちゃくちゃ遅くなったんだ。この調子でいくなら、コッホ城塞が地上に墜落するのは、何百年後か何千年後か、そのレベルだろう。


「ふぅ……一応は、食い止められたってことか」


 根本的には解決していない。問題の先延ばしかもしれないが、猶予ができたことはありがたい。時間がある時に対処すればいいだけだからな。


「ありがとう」


 ふるふると、少女は首を振る。長い髪がふわりと舞った。

 一歩、二歩、ゆっくりと歩いてから、細い指がある方向を指す。アイリスが跳んでいった方向だった。

 俺に行けと促しているのだろう。


「キミはやっぱり、ここに残るんだな」


 少女は答えない。

 崩壊を止めておくためではなく、彼女は自らの願望によってここに残るのだろう。故郷であり、墓場であるコッホ城塞に。


「また来るよ」


 俺は後ろ髪を引かれる思いで、城塞の外縁に歩を進める。

 ここに帰ってこれるのは、いつになるだろうか。少なくとも、すべてが終わるまでは、帰ってはこれない。


「じゃあ、また」


 地面を蹴り、空へと舞う。

 視界の端に映った顔のない少女が、にこりと微笑んでいた気がした。

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