第515話 手首がやわらかい
エレノアと目が合う。その表情はやはり無機質だ。こんな無愛想で聖女を名乗っていいのかな。
二年前にあった、未熟さの残る少女然とした面影はない。
「隠れていたのね」
俺の姿を見るや否や、エレノアが右手を持ち上げる。周囲に浮かぶ光の剣が、一斉にこちらに切っ先を向けた。
問答無用ってわけかよ。
「聖女様、お待ちください」
その時、平伏していた老人が声をあげた。
「なんでしょう?」
「あのお方は、ブラッキーに襲われた我々を守るために戦ってくださいました。わたくしめも、あのお方に救われたのです」
「彼は敵ではないと?」
「恐れながら、わたくしめはそう思っております」
エレノアは俺をじっと見つめる。
その瞳に揺らぎはない。
「皆さん、彼の姿をご覧なさい」
平伏していた市民達が顔を上げ、俺に振り返った。
「すでに瘴気に寄生され、その侵食は半身に及んでいます。自我を失った化け物になるまで、そう時間はかからないでしょう。瘴気とはそういうものなのです」
市民達がざわつきはじめる。
彼らは瘴気というものがなんなのか、よく知らなかったのかもしれない。
「つまり……あのお方は、まもなくブラッキーになってしまうのでございますか?」
老人は震える声で言う。
エレノアは無慈悲にも頷いた。
「ですから、彼がまだ人であるうちに……英雄であるうちに女神の許へ送って差し上げるのが、無上の慈悲であると思いませんか?」
老人は放心しているようだった。それは他の市民も同じだ。
自分を助けた者が、ブラッキーと同じ存在だと知り、得も言われぬ感情を抱いているのだろう。
「聖女様の仰る通りだ!」
誰かが叫んだ。
「これ以上被害を増やす前に、あの男をなんとかするべきじゃないか!」
「そうだそうだ! ブラッキーなら殺すべきだ!」
「ブラッキーを殺さずにいては、あたし達が死んじゃうわ! はやく殺しましょう!」
その意思は急速に伝播していく。
集団心理っていうのは怖いもんだ。聖女という後ろ盾を得ているから尚更だろう。
すでに俺は、人とも思われていないらしい。
「だから言ったのにさ」
ヒューズも緊張感のある声色になっていた。
「どうするロートス」
「どうもしねぇ。あいつの目を覚まさせるだけだ」
「まったく。無茶を言う」
正直なところ、まともに体が動かない状態で戦うなんて無理だ。
でも、ここで退いたらいけない気がする。俺の直感がそう告げている。大体の難局を直感で乗り切ってきた経験がある以上、それに従うのは悪くない選択だろう。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
崩壊した街にシュプレヒコールが反響している。
さっきまで命をかけて守っていた市民達に、死ねと言われることは、流石に精神的ダメージが大きい。
けどそれはいいさ。褒められたくて助けたわけじゃない。
そんなことより、エレノアの方が重要だ。
聖女として崇められているなんて、あいつらしくないので。
「なぁヒューズ」
「なんだい?」
「もういい。ちょっと離れてろ」
「え?」
深呼吸し、ヒューズの支えを外す。
そして、脚を引き摺りながらゆっくりとエレノアの所へと歩く。
「き、きた!」
「はやく逃げるんだ! 殺されるぞ!」
「聖女様……どうか我らをお救い下さい……!」
場は再び戦慄が支配した。
人々は我先にと逃げ出し、散り散りに走り去っていく。
宙に浮かぶエレノアの前に辿り着いた時には、すでに市民の姿は見えなくなっていた。
「エレノア……!」
「久しぶりね、ロートス」
「なに……?」
こいつ、俺のことを憶えているのか。
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