27.幕間 決着、細い一筋の道を信じるということ
戦況の大半は決していた。もはや周囲の空間は揺らぎ、存在を保つことすらままならない。箱使いと逆辻照子の立つ場所は細い一本の道でしかなかった。タイトロープを渡るかのようなか細い道。
「冗談じゃない……なぜそうも愚かでいられるんですか? 全てが茶番で、こんなところで必死に生きたところで逆辻照子、あなたは何にもなりはしない。この世界の循環に飲まれて消えていく。絶望だ。そんなことに何の大義が?正義が?名誉が?理念が?ありはしない、なにも!」
「大義も正義も名誉も理念も、どーだっていいわ」
吐き捨てる。
逆辻照子にとって手の届く十数秒以外の未来は定められたものだった。そしてそれは、自らの歩む道筋だった。
それでも、あの時の自分の心を覚えている。全ての行動が視えた未来に収束するとしても、あの瞬間だけは。
「絶望なんてね。いくらでもしてあげるわよ。私はね、それに怯えて震えるぐらいなら、体験もしないで諦めるぐらいならとっくに生きるのだってやめているわ。絶望するかどうか、なんて気にして自分で何も決められないくらいなら、いくらでも絶望してやるわ」
「わからない人だ……それなら、さよならです」
無数の箱が宙に浮いていた。それらの一つ一つが無数の宇宙と接続していて、あらゆる手段で彼女の命を奪うはずだった。
だが、既にその時逆辻照子は駆けていた。
箱使いが目を凝らす。駆け出しながら照子がポケットから取り出した何かを見据えるために。
刹那――それは閃光が炸裂した。
「があああっ!」
箱使いが叫ぶ。
スタングレネード、箱使いの視野は奪われる。その有効時間は十数秒。
だが、既にその十数秒は彼女の時間だった。
箱から無数の触手が射出された。それぞれが鋭く、地面のアスファルトすらも突き刺す即死の刃。それらを舞うように交わし、すり抜けていく。
本来ならば、それらは箱使いにとって大した反撃ではないはずだった。
無数に配置出来たはずの箱は今や世界の書き換えによって一直線の道にしか配置出来ていない。
それらは全て照子の視界に収まっていた。全ての攻撃が予測範囲へと収まっていた。
照子がスカートの下に忍ばせたサバイバルナイフを抜き、宙を舞った。
宙に浮いた箱からの攻撃を交わし、それを足場にしてまた次の箱へと飛んでいく。
箱使いが音から推測して攻撃をしたところでそれらは既に手遅れだった。
照子の《異能》は脆弱な《異能》にすぎない。
だから、ずっと鍛え上げてきたのだ。自らの技量、身体能力を。
「悪いわね。この結末だけは視えていたの。ごめんなさい。いい気分では、ないものね」
ナイフが箱使いの体へと滑り込んでいた。
決着――わずか十数秒の間の逆転。
「どうして、こんなことをしたんですか」
突き刺さったナイフ見つめながら、箱使いはそう呟く。
戦意はもう、なかった。箱使いは自分の理解にない思考にただ戸惑っているようだった。
「もう視えていたはずだ。このまま私を殺したところで、あなたはこの信仰の揺らぎ、存在を維持できないこの地点から脱出は出来ない。私の箱で移動することだけがあなたの道であったはずだ」
崩れ落ちる。地面の色は血に染まる前から漆黒だった。既にこの空間も存在を保つことが難しいようだった。
「私ね、ずっと前からこの未来が視えていた。自分がひとりぼっちで、誰かを殺してそうして真っ暗闇に消えていく」
「今ならばそれも逃れられたというのに……どうしてそうも愚かなんですか人間は……」
「そうやって人間を括ったのがお前のミス。残念ながら私は私だもの。大多数の人がそうでもね。本気で戦っていれば余裕で勝てたでしょうに、そうやって全てを茶番と思っているから足元を掬われるのよ」
「本気になる価値など……この世界にないのでね」
箱使いはそう言うと、そのまま倒れ伏した。
その場の空間が終わりを迎えるか、彼の命が尽きるのか、どちらも大差ない時間であるようだった。
彼が《異能》を身に付けたのも、口裂け女の件と同じように後天的なものだった。
初めはただ、箱という存在が好きだった。ビックリ箱を幼い時に知って、その先の見えなさに心惹かれた。彼にとって全ての人は不思議な箱だった。
どんな人にも彼を驚かせるような何かがあり、それは彼に喜びを感じさせた。様々な人の心に触れ、自分にない情緒の機微を感じるほどに彼は世界の奥行きを感じた。
そして、恋に落ちた。彼にとってその箱は特別だった。いくら開いたとしても無数の仕掛けがあり、その不可思議さに迷わされる日々そのものが幸福だった。
彼は自分なりの思いを尽くしたし、仕事であるマジックにも精を出した。人々に認められるのは心地よかった。
だが、それも長く続かなかった。
恋人をマジックの際に事故で亡くした。彼にミスはなく、完璧なはずだった。鍵のかかった箱が手筈と違って開かないまま恋人は死亡した。
彼の成功を妬んだ仲間の仕業だった。殺意があったのならば怒りのいく先があった。呪うことも出来た。原因はあっさりと判明した。浅はかな細工で犯人はすぐに捕まった。
捕まった犯人はただ、動揺していた。
そんなつもりなかった、ただ驚かせたかった、そんなことを繰り返す犯人の心は彼にとって納得のいく箱ではなかった。
悲劇に理由があるのならまだよかった。彼はそこから世界に何かしらの意味を見出せるはずだった。
そこにはただ、薄っぺらく、どうしようもない、結果に釣り合わない原因だけがあった。
何もかもが、くだらなく感じた。それでも、それからも彼は必死だった。再び世界と向き合い、自他全ての箱に意味を求めた。
何度も開いて、開いて、開いて、開いて、開いて、開いて。
やがて、それすらも無駄だと悟った。どれだけ箱に意味を求めても、彼の予想を上回るものはなかった。むしろ、その浅はかさに失望が重なるだけだった。
彼は外に出ないようになった。家の中もまた箱の中だった。あらゆる本を読んだ。あらゆる知識を求めた、あらゆる歴史を知った。
そこにあるのは繰り返す虚無だと彼は思った。
何処にも、彼の失望に対しての理由はなく、ただ取り返しのつかない喪失が世界に積もり続けていることを知った。
くだらないと思った。この世界は間違っていると思った。綺麗事が世界の醜さを誤魔化して、その醜さをのさばらさせているのだと思った。
そして、その声がした。
『世界を変えたいと思うか』
「……壊してやりたいですね」
『ならば与えよう。ただ一つの道を。この世界の
無秩序を、
無理解を、
無意味さを、
全て壊すための道を』
彼にとって、それは福音だった。自らの人生に意味が通った瞬間だった。彼が《異能》に目覚めた瞬間だった。
人は彼の箱の中では皆、同じだった。怯え、震え、命乞いをした。
ああ、やっぱり人は薄っぺらい。
そう思った。繰り返す果てに彼は自らの虚無の証拠を見つけ続けて、いつしかその自論から目を逸らすことが出来なくなっていた。
かつては全てを愛していたはずなのに。
「箱使い、あなたはどうして世界を壊したかったの?」
逆辻照子の声がした。彼はもう何も視えなかった。それは空間が終わりを迎えたからなのか、自らの命が消える寸前だからなのかすらもうわからなかった。
「人は、くだらないと思ったから……」
声を振り絞った。今この状況でも、自分の言葉を離せなかった。どうして、自分の傍にいるであろう少女が自分達に味方をしないのか不思議でしょうがなかった。だから、認めさせたいと思っていた。この世界に価値なんてない。この世界は作り替えなくてはいけないと。
「同じことを繰り返している。妬み、嫉み、呪い、何かを愛することが容易に何かを傷つけ、何かを守ることが何かを奪い、この世界には常に苦しみが存在する。苦しみの中にいない人間はそれから目を逸らし、世界を素晴らしいものだと嘯く。この世界には、どうしようもない絶望が存在し続けているのに。くだらない。くだらない。くだらないですよ」
「……」
「世界を愛せると思ったこともありましたよ。でも、それは失った。もう戻ってこない。そしてその喪失にすら意味がなかった。そんなことは許せない、許せなかったんだ」
そこには伊達男の面影はなかった。ただ、何か自分でも思い出せない悲しみの中にいる一人の孤独な人がいた。
「あなたは、世界を信じたかったのね」
思っても見ない、言葉が投げかけられた。
「……何を言っているんですか?」
「愛したから、価値があると信じていたから、世界が応えてくれると信じていたから、あなたは意味を与えてくれない世界を呪ったんだわ。それって、それだけ期待してたってことよ」
意味が欲しかった。恋人の死がくだらない嫉妬で、殺意も覚悟もないものならあまりにも意味がないと思った。この世界の悲劇には、理由が必要だと思った。
自分の知らない、納得のいく理由があるはずだと世界にすがった。
それでも彼にとって納得のいく答えはなくて、だから世界を壊したいと思った。世界がくだらなくて、それを自分が壊したのなら、それは結果的に全ての意味のない死に救いがあると思ったから。
全てに意味がなかった悲しみは、自分が世界を変えるためにあったのだと思えたから。
「なんだ、私はずっと、本気になってしまっていたのか」
茶番だと思った。世界を嗤う道化になろうと決めていた。世界には意味がないから。
そうだというのに、世界に意味をあたえようと躍起になっていたなんて矛盾している。
「いいじゃない」
そう、声がした。
「は……?」
「全部が茶番だと思って世界なんて壊されちゃたまったもんじゃないわよ。せめて全力でぶつかるのが礼儀ってもんよ。ま、それを自覚されてたらこの戦いもどうなってたかわからないし、私にとってはツイてたけど」
彼女は笑った。
「勝っても何にもならないですよ。あなたはこのまま私と消えてしまう。後に何も残らない戦いも大概くだらない」
「それは見解の相違ね」
「……ほう?」
「私はね。信じたくないのに信じていることもあるけど、信じたくて信じていることだってあるの。どうしようもない奴だけど、最後には何かをやり遂げてくれるバカがいるって信じているの。あいつの未来が視えていないってことが、希望だもの」
「羨ましいですよ……」
徐々に彼の呼吸が静かになっていく。
くだらない。本当に、くだらない。戦力ならこちらで既に想定しきっている、『瞳』の対策は既に打たれている。きっとこのやりとりすらも最終局面のための消化試合でしかない。
だから、傍の少女の言葉はきっと裏切られる。かつての自分のように。
なのに、どうせこのまま消えていくのに。何もかも無駄になるかもしれないというのに、この人は過去の自分のように世界を信じている。
「――――」
彼の手がわずかに動く。それと彼の鼓動が止まったのは同時だった。
「はぁ。本当にそんな役回り。後味も全然良くない。本当に嫌になっちゃうわね」
そう言って、彼女は天を見る。
「久遠、あんたの未来は私にも視えていないんだから。頼んだわよ」
そして、呟く。誰が聞くわけでもない。
そんな、言葉。
「精々見苦しく足掻きなさい。絶望なんて生きていればいくらでもあることなんだから、そんなに怖がるもんじゃない。それで絶望して、それでも死ねなくて、いちいち悩んで、迷って、そうしてしぶしぶ歩いて進んでいきなさい。私はそういうあんたを――信じてる」
世界は収縮していく。数刻後、その場には塵一つさえも残らなかった。
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