参 ドッペルゲンガーとパンドラボックス。
0.プロローグ
「久遠さん、あなたにとって世界は何で出来ていますか」
そう、師匠に聞かれたことがある。私が五葉塾に来た時か、師匠に《異能》や《怪異》について教えてもらった時か、それとも師匠に《瞳》の使い方を教えてもらった時か。
いつのことだったのかは朧げだけど、その会話が何か私に取って決定的なものだったことだけは覚えている。
それは自動的だった。それは自然の行動だった。私にとって、それは自明のことのように思えたから。
その言葉に私はほとんど思考を介さずに返していた。
世界は言葉で出来ている。
私の中にいつの間にか出来ていた絶対的なルール。私にとって絶対的な《信じること》だった。
だから師匠は私を《言葉師》として知識と技術を与えた。
だから私は《言葉師》としての道を歩むことに決めた。
その《信仰》は私にとって揺らぐことのないものだった。
でも、私の手からはいくつものものがすり抜けていく。
私の力だけではどうにもならないこと、どうあっても救えないもの、変わらないものがこの世界には溢れている。
無数の悲しみ、無数の絶望、やりきれなさ。私が救えないもの。私を動かすもの。
私が救えなかった人。
私に手を差し伸べてくれたはずの人。
ねえさんのこと。
私は思い出す。大切なことを忘れないように、何度でも。
それでも。
それでも。
思い出そうとすると、穴だらけの記憶。食い違う記憶。
私は、そうして《言葉》を読み落とす、読み飛ばす。
「あんたはこの世界が何で出来ていると思う?」
車の中で
私は、それにかつてのように自然と返すことが出来ない。
町は崩壊している。車の走っている道も、私たちが通り過ぎた後には虚無しか残らない。
私たちの世界は既に崩壊しつつあって、私たちの理解の及ばない原因と思惑で満ちていて、これから私の《瞳》で出来ることがどれだけあるのかもわからない。
世界が言葉で出来ているのなら、どうしてこんなにも世界に言葉は無力なのだろう。
私はどう答えるべきなんだろう。私は何を思うべきなんだろう。
暗雲の立ち込める空を見て、私は胸を詰まらせる。
私はただ考える。
私が手を差し伸べられた人。
榎音未さんのこと。今の私に考えられるのは、そのことだけだから。
0.プロローグ
その《誰か》は、《透明》だった。
「はい、おはよう。よく眠れたかね」
誰かが目を開くと男がそう言った。白を基調としたスーツとシルクハットを着こなした男。芝居のかかったような喋りが印象的だと、《誰か》でなければ思っただろう。
その部屋は暗かった。そして、冷たかった。
灯りもついていない部屋。個々のペルソナすら覆い尽くすような暗闇。
誰かはこの場所こそが自分が生まれ、生き、死んでいく場所だという確信があった。簡略化された生の全てがそこにあった。それが自分の全てだと、誰かは思った。
そこでしか生きていけないという絶望と共に。
暗闇の中で生まれ、暗闇の中で消えていく。それこそが自分の始まりで、終わりなのだ。
しかし、目の前の伊達男はそうは思っていないようだった。
彼がマッチで火を付ける。闇の中に光が生まれる。煙草に火をつけて、炎の赤が闇の中で軌跡を描く。
誰かの視界に紫煙が部屋に広がるのが見える。
「ああ、禁煙だったかな? 申し訳ないね。今日はね、君に良い話を持って来たんだ」
男は《箱》を持っていた。それまでの部屋の闇よりも深き黒さを持った箱。
バスケットボール程度の大きさの箱だ。
「君が気にいるといいんだけどね。まぁとりあえずの餞別だよ」
箱を開く。
その箱の大きさとは似つかない、成人した女性が落下する。物理法則を無視した現象がそこにあった。
「な、なに、なんなのよここ……」
箱から“取り出された”女性は混乱を表情に滲ませている。
男はその女性のことなど見向きもしていない。まるで、箱から取り出した中身には何も興味が無いようだった。
女性はその反応に絶望する。自分という存在の真なる否定。それは拒絶ではない。そこに存在することすら意に介されないことなのだと理解する。
いつの間にか部屋には明かりが灯っている。
誰かの目の前で伊達男が手を差し伸べる。恭しく、仰々しく、この瞬間が人生でただ一度だけの運命的なものであるかのように。
「私の名は
その言葉は誰かの内側に強く響いた。それまでの記憶が一切存在していない自分が永劫に近い時をかけて求めていた何かを一緒に探そうと言ってくれたような、そんな何もない自分を肯定してくれるような言葉。
ああ、信じたい。目の前の男のこの言葉を信じたい。
誰かはそう思う。手を掴みたいと思う。
それでも、手を握ることが出来ない。
「失礼。まだ君には腕が無かったね。申し訳ないことをした。何事にも順序というものがある。決まったモーニングルーティーンをこなさなければ爽やかな一日を始められないのと同じさ。誰にでもこなしたい流れがあって、それをこなさなければ良い過程も結果もついてはこないものさ。つい流行る気持ちを抑えきれなかったようだ、私は」
男の背後では箱から取り出された女性が這いつくばりながら距離を取ろうとしている。恐怖、戸惑い、絶望、そして逃げ切れるかもしれないという微かな希望。それらをミックスした感情を顔に滲ませながら女性は部屋から出ようとする。この部屋に、扉など無いというのに。
「さて、君の出番だ」
男のその声は、明確に女性に向けられたものだった。
その声は、女性に更なる絶望を呼ぶ。あんなに私を無視していたじゃないか、いや、無視という表現すらおかしいかもしれなかった。彼は、そもそも彼女の存在を全く意識していなかった。蟻が地面を這うのを気にしながら歩く人がいないように、道端の石ころにいちいち視線をやらないように、ただそこに在るものを見ない存在の振る舞いだった。
なのに、どうして今は私に意識を向けるのか。
誰かは、いつの間にか女性の目の前にいた。
「何よぉ、何なのよお! あんた誰よ! 家に帰してよ!」
誰かの方は見向きもせずに女性が男に叫ぶ。誰かの存在を、女性は認識していない。ただ、伊達男に向けて懇願する。
「全く、礼儀のなっていない人だな。申し訳ないね。でも、ちょうどこの女性は仕事を辞めていてね。人生の空白期間というやつだったんだ。もしかすると、人生の転機であったのかもしれないね。それなら、ちょっとやそっとの違和感があっても彼らに即座には察知されないだろうと思ってね」
女性の体が硬直する。
明るくなったはずの部屋なのに彼女の体に闇が巻きついている。
首を固定し、天井を見上げるように姿勢を矯正される。
そして女性は気づく。この部屋は部屋などでは無いことを。
ぽっかりと空いた天井。その上から巨大な伊達男がこの空間を覗いている。
違う。頭上の伊達男が巨大なのではない。自分が小さくなっている。
この部屋こそが箱なのだ。
「口を開いてもらうよ。まずは肉体を得ないことには何も始まらないわけだからね」
ぐぐぐ、っと女性の口が開かれる。
「んんー! んん!」
口を閉じようとする力は無視される。女性の瞳から涙がこぼれ落ちる。
誰かは、その光景に何も心が動かない。
心の動きというものは、自分の内にある何かと目の前の現象の距離を測ることだから。
自分というものが存在しない誰かには、目の前の現象に思うことは何もない。
「さぁ、君。入りたまえ。まずはそこからさ。これから君が道を歩むための、第一歩だ」
だが、それでもなお《誰か》は思う。今は、伊達男の言葉を信じたい。
女性は今なお誰かを見ていない。見えていない。
だから、簡単に入れる。
「……あぐ……んんん……ぎぃ……ひぃ…………んんん………」
開かれた女性の口の中に、誰かは侵入した。
そして、誰かは自らを発動させる。彼/彼女にとって自覚すら必要なく行使出来る力を。誰かが出来る唯一にして、絶対の理を。
「いや……私、わたし、ワタシ……わたしわたしわたしわたしわたしわたしわたしわたし……ああああああああああああああ!」
絶叫が響く。伊達男は眉ひとつ動かさずにその光景を見つめていた。そこにあるのは見下しても嘲笑でもなかった。ただ、自然の摂理を見つめる視線があった。
彼女の存在が塗り変わっていく。それは女性の存在を誰かが塗り変えることでもあり、同時に誰かを攫われた女性が塗り替えていくことでもあった。
少しの時があって、女性が立ち上がる。そこにいるのは、誰かであり彼女であり、誰かでなく彼女ではなかった。
「ようこそ世界へ。ドッペルゲンガー。君を待つ、この醜くも美しく再編される世界へ」
《誰か》に名前が与えられる。
ドッペルゲンガー、何処にでもいて、何処にもいない。何者でもあり、何者でもない。透明な存在である《怪異》として。
――――揺らがない自分、信じられる自分。そんなものは全て幻想に過ぎない。
参 ドッペルゲンガーとパンドラボックス
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