第3話 異世界の温泉旅館を堪能せよ! 前編
トールは目の前の建物を見て、感慨深い気持ちになった。
今でこそミストの手によって統一国家となった大陸だが、当然ながらその国、地域によって文化は異なる。とはいえ、多少の差異があるにしても、大きな街の建築物に関しては石造りがメインとされていた。
そんな中、目の前の建物はこの大陸では珍しい、風情溢れる木造建築だ。美しい深緑の木々に囲まれて建てられたそれは、かつて住んでいた日本の温泉旅館をイメージさせる。
『異世界旅館 幻想亭』
そう綴られた建物は、トールが己の権力と財をフルに使って手掛けた温泉旅館である。
「これが旦那様の国の建物か。木造だからこそ生み出せる美しさ、自然溢れる心落ち着く空間……初めて見る様相ではあるが、いいではないか! 気に入ったぞ!」
「ああ、本当にいい出来だ」
完成した姿を見るのは初めてだが、つい故郷を思い出して目頭が熱くなり空を見上げる。別に元の世界に未練があるわけではない。だがこうして見ると、どうしても感じ入るものがあるのだ。
不意に、己の手が柔らかくも暖かいものに包まれる。隣に立つミストがそっと手を添えてくれていたのだ。
挑戦的な笑みを浮かべる彼女を見ると、それまであった哀愁の念は消えた。その代わり、背筋は伸び力が入る。
「せっかく旦那様が私のために用意してくれた時間だ。存分に堪能させてもらおうか」
「ああ、ぜひ楽しんでくれ。今日は俺達二人だけの記念日なんだから」
添えられた手を握り返す。そうしてトール達は木造で作られた門の中へと一歩踏み出した。
この日、二人は公務ではなく完全に私事にてこの旅館まで足を運んでいた。
王都シノミヤからは大きく離れた、海と山に囲まれた村に存在するこの『異世界旅館 幻想亭』は、トールがこの日の為に二年以上の月日を費やして作り上げたものだ。
ほとんど私事で金を使わないトールが、どうしても作りたいと物があるとミストに懇願した時は、彼を知る者ほとんどを驚かせた。
周囲の者が詳しく話を聞くと、故郷をイメージさせる街を作りたいというのだから更に驚きは増す。
とはいえ、元々異世界からの来訪者であることは周知されており、しかも国の頂点に位置する人間の頼みだ。異世界の文化というのも面白いと、ミストを含め満場一致で採用された。
そうしてトール主軸で行われる街づくりのテーマは『温泉街』。とはいえ、事はそう簡単な話ではない。
トールが地球にいた頃、趣味と言えば? と聞かれれば「温泉巡り」と答える程度にはよく旅館を巡っていた。だからといって旅館の歴史や建築の知識、それに畳の作り方など知っている訳もなく、こうして温泉旅館を作ろうと思い至った時、大いに頭を抱えたものだ。
暗黒教団の情報収集力を持ってすれば、温泉の湧き出る地域を探すのはそう難しくなかったが、物を作るとなるとそうはいかない。
何せこの世界にはパソコンもインターネットもないのだ。素人の知識など当てにならず、見た目のイメージ以外に伝えられる手段がなかった。
職人達と細かく打ち合わせをするも、現物のない物を作ろうというのだ。多くの有能な職人達を登用して進められたこのプロジェクトだが、進行は思うように進まず、二年の月日が経って出来たのはメインとなる旅館一棟とその周辺のみ。
今回はその完成した旅館を一番最初に堪能すべく、こうしてオープン前に二人でやってきたのだ。
二人がプライベートで王都を離れる事は、先日の誘拐事件のように不安がないわけではない。しかし今回は暗黒教団の幹部ほぼ全員が王都に集結して警戒に当たっている。先日のような不祥事はまず起こり得ないだろう。
ミコトが隕石を落としても大丈夫なだけの戦力はある。むしろミストの護衛がトール一人だけという方に心配されたが、トールには計画があった。今日ばかりは、他の誰にも付いて来られるわけにはいかなかったのだ。
過去に暗黒教団の総勢一万人を相手に勝利した実績がある。それを盾に取り、煩く騒ぐ幹部達を押しのけることに成功した。悔しそうにする幹部達だったが、物わかりの良い子供達に諭され大人しく王都で護衛をする事が決まる。
そうして勝ち得た二人きりの旅行だが、この旅館を建てるにあたり、後半はトール自身公務に忙しく、ほとんど関われなかったので不安があった。
だが実際に完成した建物は外装はもちろん、内装までトールのイメージと遜色ない出来で、驚きを隠せずにはいられない。そして驚かされたのは建物だけではない。従業員のもてなしに関してもそうだ。
「ようこそいらっしゃいました。ミスト様、トール様。従業員一同、お二人の御来訪、心よりお待ちしておりました」
旅館に入ると同時に、美しい所作で床に三つ指をつき丁寧に頭を下げる女性達。
確かに話はしたがあくまでイメージ。そう思っていたが、着物で着飾った女将達の美しい立ち振る舞い、小さな気遣い、笑顔、言葉遣い。どれをとっても最高レベルの接客にトールは呆気に取られてしまう。
そのもてなしの心はミストにも届いたのか、中々に心地が良さそうだ。見覚えのない装飾物に目を光らせ、物珍しそうに通路を歩く様は子供のようで実に可愛らしかった。
初めて見る物とはいえ、その美しさは本物である。ミストの目利きをしても満足のいくレベルの物が用意出来ているようで、トール自身少し安堵してしまうのは仕方がないだろう。
ただ意外だったのは、ミストが一番反応した物だった。
「この畳というの、いいではないか! 柔らかく、美しい! なによりこの黄金色の床というのが私を象徴しているようで素晴らしいぞ!」
この大陸には素足で部屋に入るという習慣がない。最初は珍しく不安そうな顔をしていたミストであったが、畳の触り心地を感じてからは満面の笑みを浮かべてはしゃいでいた。
その姿を見たトールは、内心ケダモノになりかける自身の心を抑え込むのに苦労したものだ。
「それではお二方。当館の説明は以上となります。ごゆるりとお過ごしください」
旅館のルール、温泉など一通りの案内を終えた女将が三つ指で頭を下げそう言うと、畳が敷かれた部屋にミストと二人きりとなる。
「…………」
「…………」
別に二人きりなど珍しい事ではない。寝る時はベットでいつも一緒であるし、公務でも二人になる場合は多い。
ただ、こうして周囲に知り合いが一人もいない中、いつもと違う環境で二人きりというのは妙に緊張する。ミストの顔もなんとなく、普段とは異なり緊張しているようにも見えた。
だがトールには緊張している暇はなかった。今日はミストを心の底から楽しませると決めているのだ。そして、絶対に為し得なければならない目標もある。
「ど、どうだミスト? この旅館は?」
「う、うむ……まあ、その、悪くない。悪くないぞ!」
「そ、そうか! それなら良かった!」
日本の旅館と違い、テレビも車もない世界だ。部屋は静かな自然の音のみで、少し顔を赤らめているミストを見ると、大きくなった心臓の音まで聞こえてしまうのではないかと思う。
「なあ旦那様……さっきの女が着ていたアレは初めて見るが……何と言うのだ?」
妙に挙動不審に尋ねて来るミストに首を傾げるが、着ていたアレというのが着物であることはすぐに察せられた。
「あれは着物といって、俺の国の……昔の女性が着ていた服だな。今だとこんな感じの旅館か、特別な時くらいしか着ないけど」
「ほ、ほう……」
きょろきょろと瞳を泳がせるミストを見て、もしかして着てみたいのだろうかと思う。
美しい金糸のような髪のミストが着物を着るのだ。似合わない筈がないし、とてつもなく見たかった。
トールは無言でクローゼットの中を開ける。そこには柔らかそうな生地のタオルと、浴衣が置いてあった。
男性用の浴衣は濃い紺色の物が一つ、だが女性用の浴衣は三種類が置いてある。
白地をベースに薄いピンクの桜模様――この世界に桜はなく、トールも説明していないのに何故かある――の物。
黒地をベースに赤いバラ模様の入った物。そして青地をベースに白い花模様の入った物だ。
それぞれのミストを想像してみる。可愛い。間違いなくどれも似合う。
「むむむ……」
「何を唸っているのだ?」
ひょいっと肩越しに顔をだしたミストに声をかけられる。
「む、それはまさか……」
「浴衣なんだが、ミストにはどれも似合うのは間違いないから、どれがいいかと思って。絶対全部可愛いし……」
「だ、旦那様よ……心の声が漏れてるぞ」
言われて振り向くと、少し恥ずかしそうに顔を背けるミストがいた。可愛い。しかし完全に内心をばらしてしまい、トール自身も顔が赤くなる。
「あ、や、その……本心だから」
「わ、分かっているさ……そ、そうだな。それなら全部着てやろう。べ、別に一着しか着てはならないというルールはないのだろ!?」
「ほ、本当に!? 全部見せてくれるのか? ……しゃあ!」
色々なミストの浴衣姿が見れると聞いて、トールのテンションは一気に跳ね上がる。絶対可愛い。見たい! 今トールの心はそれ以外考えられなかった。
「そ、そこまで喜ばれると少々気恥ずかしいな……ところで、これはどうやって着るんだ?」
「ああ、それは……」
軽く見本を見せる様に、自分が先に浴衣を手に取り着替えて見せる。じっと見られるのは恥ずかしいが、流石に何度も夜を共にしているのだ。今更見られてところで何の問題もない。
「なるほど……」
そうしてミストは白い浴衣を手に取った。恐らく見た事のない桜のデザインが気に入ったのだろう。じっと見ている。
そんなミストをトールはじっと見ている。
「……おい旦那様。じっと見られながら着替えるのは、流石に恥ずかしいのだが」
「大丈夫。俺は恥ずかしくない」
「私が恥ずかしいのだ馬鹿もの!」
「あいたっ!」
頭をはたかれ強制的に後ろに振り向かさせられる。残念と思いつつも、背中越しすぐ後ろで布擦れ服が落ちる音が聞こえてくると、下手に視覚がない分余計にエロい気がした。
振り向いちゃ駄目だろうか? 夫婦だしいいんじゃないだろうか? などと悪魔の誘惑がトールを襲うが、この後の事を思い出し必死に悪魔を追い出す事に成功する。
「い、いいぞ……」
「お、おう……」
そうして振り向くと、女神がいた。いや、いつも女神だが、いつも以上に女神だった。
白地の浴衣は主張こそ控えめだが、美しいミストの黄金の髪や瞳をより際立たせる。緋色の帯も金とのコントラストが完璧で、この浴衣はミストの為に作られたのではないだろうか思わずにはいられない。
出会った頃より少し膨らみのある胸は強調し過ぎず、腰からお尻にかけてのラインがはっきりと分かる浴衣のデザインは、何時も以上にミストを魅力的に映えさせていた。
「ど、どうだろうか?」
ミストは少しだけ不安そうに身体を見ながらクルリと一回転する。
「率直に言って……襲い掛かりたいくらい可愛い」
「おっ!? そ、そうか! まあ私だからな! 何着ても似合うのは当然だ! だ、だがまだ日も出てるから! 襲うのは駄目だぞ!」
「大丈夫……まだ大丈夫……」
これが後二回も残っているのだ。それにトールには計画がある。今襲い掛かって全てをパーにするわけにはいかないのだ。
「だ、旦那様も中々……その、格好いいぞ」
――もう襲っちゃ駄目だろうかこの子。
彼女の上目遣いはトールの計画、『貸し切り露天温泉で混浴しながらイチャイチャ大作戦』を崩しかねない恐ろしいほどの威力を持って襲い掛かってきた。
しかしもちろん、トールは鋼の意志を持って我慢する。ミストと露天温泉でイチャイチャする為に。
――ミストと露天温泉でイチャイチャする為に!
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