第65話 ビテン先生
「ふにゃあ……むにゅう……きにゃあ……きゅぬう……」
愛らしい鳴き声がビテンとマリンの寮部屋のダイニングに響いた。
美少女のマリンが鳴いたのなら愛らしかったのだろうが残念ながらビテンです。
「マリン~。コ~ヒ~」
「うん……」
のいつものやりとりから朝食に移り、ビテンは眠気眼をうとうとさせながら自身を鼓舞するために鳴いたのだ。
そんなことを百も承知と受け入れるマリンも正妻の貫禄。
「むにゃむにゃ……」
と睡魔と闘いながらビテンはマリンの用意してくれた朝食をとっていた。
トーストとスクランブルエッグ、レタスサラダにコーンスープ。
どれも美味ではあったがビテンの心中を語るなら、
「マリンが作れば何でも美味しい」
に終始する。
因果な性格だ。
愛ゆえではあろうが、
「マリンの淹れてくれたコーヒーはブラックでも愛が甘い」
などと平気でほざく輩なのだ。
点数が加点されるのはマリニストの宿業と云えるだろう。
「むにゃあ。にゃあにゃあ。ごっそさんでした」
パンと一拍。
事ここにきて加愛された甘めのブラックコーヒーのカフェインが効いてくる。
まるで風の旅人のように眠気は憑いては去っていく。
どこに行ってるかはビテンにも不明だ。
いかなエントロピーが働いているのかも。
「はい……。コーヒー……」
とマリンは食後のコーヒーをビテンにふるまうと自身は食器の片づけに入った。
カチャカチャと食器の打ち合う音にさえマリンの愛を感じながらビテンは静かにコーヒーを飲む。
幾ばくそうしていたろう。
最終的に二人仲睦まじくテーブルを囲んで今日の予定をたてる。
とは云っても、
「何して遊ぶ?」
とビテンが言う通り、学院生にあるまじき予定の立て方だったが。
一応禁忌指定魔術書の翻訳も予定には入っている。
ビテンが積極的になるのはマリン関連か魔術関連か二つに一つ。
「たとえハルマゲドンが起きたって俺とマリンさえ生き残ればいい」
と嘯くビテンである。
「人生を楽しむ秘訣はマリンと魔術。後は次点で食事と睡眠とセックスだな」
とも言う。
マリニストここに極まれり。
そんなことは今更だが。
「どうせ午後からエル研究会を開くんだから午前中は遊ぼうぜ」
とビテン。
「あう……」
と良識を持ったマリンは委縮。
「そこまで引け目を感じることか?」
「だって……サボりは……ダメ……」
色付きマントをもらうくらいであるからビテンにしろマリンにしろ一定の(正確には破格を極めるのだが)能力を持っている証拠だ。
当然単位不問処置ではあるがソレと良識とが摩擦を起こしてもいる。
まして新入生ながらに色付きともなれば羨望と嫉妬の視線からは逃れられない。
心中小動物のマリンにはプレッシャーだった。
「一応エル研究会でエンシェントレコードの研究をしているからサボりではないんじゃないか?」
ビテンは言う。
まこと尤もだが、
「あう……」
後ろ髪ひかれる思いはマリンには拭い難いものだったらしい。
「神語の講義に出るより禁忌魔術を紐解いている俺たちの方がよほど魔術の造詣を深めていると思うがな」
事実だが、
「あう……」
それが通用しないのも小動物なわけで。
「なんならマリンに嫉妬する人間皆殺しにするか?」
「殺人は……ダメ……」
「だろうな」
良心の呵責ではないところで納得するビテン。
マリンとのゲッシュは何にも勝る。
「じゃあ」
ビテンはちらと窓を見た。
今日は雨らしい。
女心と秋の空。
もっともマリンの心を疑うなぞ微塵もあり得ないビテンではあったが。
「今日は部屋でイチャイチャするか」
「ふえ……」
ビテンの提案に終始羞恥するマリン。
「エッチなのは……ダメだよ……?」
「いいじゃん。えっちぃことしようぜ?」
「ダメ……」
「何ゆえ?」
「ビテンには……他に相応しい人が……きっといる……」
「いねえよ」
「視野狭窄……」
「何とでも」
ビテンは飄々としていた。
それでいて全部を理解しているのだからタチが悪い。
「ふふふふふ……」
「ビテン……目がエッチ……」
と、玄関ベルが鳴った。
カランカランと。
「ちっ」
「はい……」
マリンが出る。
「あう……ユリス……」
生徒会長のお出ましだった。
「何用だ?」
いっそビテンはそっけない。
面倒事だと割り切っている。
そうには違いないのだ。
「ビテン」
「何でっしゃろ?」
「今日だけ講師になってくれ」
「はい?」
無遠慮で無精で不遜で面の皮の厚いビテンにとっても寝耳に水な話であった。
*
つまり何かと云えば神語学の講師が病に臥せったのを端に発しているらしい。
あまりに唐突だったため、急遽代行を求めたが見つからず。
「別に休講にすればいいだろ」
とビテンは言ったが、
「君のイメージアップが目的だ」
とユリスは言った。
「マリンにさえ格好良いと思ってもらえればそれ以上を俺は求めん」
そっけなく言ってのける。
「マリン?」
とこれはユリス。
金色の瞳が黒い瞳を覗き込む。
「ビテンの格好良い講師姿を見たくないか?」
「見たい……かも……」
こうして趨勢は決した。
正直遠回しにマリンを仲介して操り人形にされている感は拭えないが、マリンの期待を裏切ることは割腹物のマリニスト。
業が深いとはこのことを言う。
そんなわけで、
「えー……一日だけ代行として講師を務めさせてもらいます」
ビテンは教壇に立ったのだった。
噂が噂を呼び美少年講師ビテンの講義を受けたがる女生徒たちが殺到した。
というかビテン以外、学院は女生徒しかいないのだが。
神話学の単位を取得していない生徒までもが詰め寄せ一種の興奮の坩堝だ。
ちなみにマリンは最前席右端にてニコニコとご機嫌だった。
ビテンの講師姿を見たいというのは嘘でも方便でもないらしい。
「正直なところ気が重い」
がビテンの偽らざる心境だが状況打開には九十分が必要となる。
一応此度の講義予定はユリスから聞かされたものの、ビテンは教科書を開くだけで頭痛がした。
もとより数多ある神語文字を網羅しているビテンである。
今更神語学と言われてもへのつっぱりにもならない。
「あー……」
言葉を選んで嘆息。
パタンと言語学の教科書を閉じる。
「何でお前らこんなつまらない講義に出てるんだ?」
心底不思議そうにビテンは生徒たちに疑問を呈した。
神語の翻訳ができないと魔術を覚えられないためではあるが、元から神語を見知っているビテンには、
「くだらない」
と一蹴する他ない。
「まぁ神語翻訳能力がなければ魔術を覚えられないから仕方ないっちゃないんだが……こうも典型的だとなぁ」
無遠慮を象徴するようなビテンの言の葉であった。
「よし。予定変更。今日はお前らに魔術を覚えてもらう」
講義に参加している多数の女生徒がどよめいた。
「と云っても講義時間は九十分しかないんだよなぁ。中級魔術までは無理だから下級魔術で済ませるか」
そしてビテンは黒板にびっしりと神語文字を書いて埋め尽くした。
黒板の左上から始まって右下までくまなく神語文字が羅列される。
ビテンはチョークの先でカツンと黒板を叩くと、
「さて、以上がファイヤーボールの神語だ。で、翻訳にあたって留意すべき点は……」
一般的な翻訳状況を指し示して見せた。
神語翻訳は十人十色にして千変万化。
一人として同じ翻訳となる人間はいない。
が、翻訳である以上、似通った部分はどうしても出てくる。
その辺りを重点的に解説しながら、ビテンは神語文字の意味と要約について質問を受け付ける形式を取った。
次々と手が上がる。
「三行目の神語文字についてですが……」
「ル、ラート、カルナ、ヒフだな。俺は『熱は我が手に』と訳してる。共通する翻訳の仕方なら『熱がここにある』をアレンジするのがいいんじゃないか?」
そんなこんなで次々と質問をさばいていく。
共通語訳の説明と個別翻訳の受け答え。
総じて実入りのある講義となった。
そして話題にもなった。
なにせたった九十分間で、ビテンの講義に参加した生徒の四分の一がファイヤーボールを覚えるに至ったのだから。
無論、事前知識の有る無しもあろう。
魔術特性の可否もあろう。
だが、それでもビテンの講義は学院に波紋を呼んだ。
実利一択の講義で魔女が生まれたのだ。
噂にならない方がおかしい。
学院は、
「是非ともビテンには研究室を持って生徒たちを導いてほしい」
と嘆願を出した。
「面倒くさい」
で一刀両断するビテンであったが。
だがビテンが講師として優れているのはすでに実績がある。
学院はあの手この手で攻めてきたがビテンの無精が許すはずもないのだ。
もう一つ。
ビテンの講義を受けた生徒たちは、エル研究会に意義を見出した。
エンシェントレコード研究会。
そに所属すればビテンの講義をワンランクアップで享受できるのだ。
入会希望者が多発したが当然ビテンが許すはずもない。
ましてマリンが人見知りでもあるため、正直なところクズノとシダラとカイトとユリスだけでもプレッシャーなのだ。
小心者故マリンは口にはしないが。
「ここは万物全てを我が腕に……か?」
講義が終わった後、ビテンたちは(今日は雨であるため芝生の原っぱは使えない)生徒会室に集まって部活動をしていた。
「反響がすごかったですわね」
「まったくっす」
「ビテンはさすがだな」
「推した甲斐がありました」
エル研究会の面々は自身事の様に誇らしげだった。
ビテンにしてみれば、
「なんだかなぁ」
と云った様子だが。
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