第36話 シダラとお風呂


「ふい」


 吐息。


 ビテンのものだ。


 服は無く。


 頭に折りたたまれたタオルが乗っかっている。


 つまり風呂に入っているのだ。


 アイリツ大陸は大方において温泉が湧く。


 故に教会に風呂があっても不思議ではない。


 貧民街にも公共浴場があるらしく、これに限って言えば無料で使用できるということをビテンはシダラから聞いていた。


 一種の貧民救済の処置だろう。


 そもそも貧民街は労働力のたまり場として機能する。


 である以上、それなりの清潔感をもっていなければ王都民も難色を示す。


 そこまで理解できているためビテンは特に何を言うでもなかった。


 そんなこんなで温泉を堪能していると、カラリと引き戸の開く音がした。


「…………」


 気配自体は察しえた。


 それが誰かまでは考えていなかったが。


 衣擦れの音がするため誰かが浴場に来たことだけをビテンは解していた。


「マリンなら良いなぁ……」


 程度には思っていたが、同時に、


「マリアだったらどうしよう」


 との一抹の不安もあった。


 当然マリアが入ってこようと教会の主であるため問題は無いのだが、


「何が悲しゅーて媼の裸体を見にゃならん」


 と健全な男の子らしい感性も一応ビテンは持ち合わせているのだ。


 が、此度浴場に入ってきたのはマリンでもマリアでもなかった。


 赤い髪に赤い瞳。


 顔の造りは丁寧で、じゃれつく猫のような快活さを表している。


 体はユリスほどではないが恵まれており、胸に果実の様なふくらみ二つ。


 というかマリン、クズノ、シダラ、カイト、ユリスという学友(ちなみに学院生ならびに世間様にはビテンハーレムと呼称されている)たちの内半分以上は胸が残念だ。


 マリンがAAA。


 クズノがAA。


 カイトがA。


 三人が三人ともにスリムなモデル体型ではあるが、胸だけで判じるなら先述した様に残念に尽きる。


 そういう意味では巨乳のユリスや、此度のいくらか恵まれているシダラは貴重な女性と言えないこともない。


 タオルで体を隠す……こともしていないシダラの裸体をチラと見やった後、


「シダラか」


 ビテンは興味なさげに視線を外した。


「むぅ」


 とシダラ。


 赤い瞳には不満と羞恥が一対一。


 不満は当然ビテンの無関心にて引き出された物。


 羞恥は乙女回路の出力現象だ。


「ビテンは当方の裸体にも反応しないっすか?」


「ま~な~」


 特に反論する箇所も無い。


「人に言えない性癖っすか?」


「別に言っても良いが面白い話でも無いぞ?」


「どういう女の子の裸体なら反応するっすか?」


「うーん……」


 女性の理想像を押さえて、


「今更聞くか?」


 なおそう思うビテンだった。


「黒髪黒眼の美少女が前提だな。胸の有る無しはこの際考慮に入れない。ただし乙女チックで羞恥心を持ち、好意を持つ人間には恥ずかしがったり萎縮したりする。当然一緒に風呂に入ろうなんて考えただけで卒倒してしまう女の子が最適だ」


「マリンのことっすよね?」


「俺の主義は知っているだろう?」


 マリニズム。


「じゃあ風呂にアタックした時点で当方は除外対象っすか?」


「そゆことになる」


 どこまでも飄々とビテンは言った。


 シダラは体を洗うと入浴した。


 当然位置取りはビテンのすぐ隣だ。


「あんまり意地悪言わないでほしいっす」


 ムニュンと柔らかな乳房がビテンの腕に押し付けられて変形する。


「と言われてもなぁ……これは魂の問題だし……」


 この世界の魂の定義は地球のソレとは少し違うがここでは割愛する。


「当方に魅力は無いっすか?」


「とは言わんが……俺に取り入って何が楽しい?」


 それがビテンには心底度し難い。


 少なくともビテンに執着せずともシダラは魅力的な女性だ。


 どう考えても恋愛事情では選ぶ側に立てるだろう。


「別に無理にマリニズムに染まったビテンを懐柔する意味が無い」


 とビテンは思っている。


「まずは申し訳ないっす」


「何が」


「こんな貧相な場所と接待しか提供できなくて」


「シチューは美味かったし、こうして風呂に入れてるし、雨風も凌げるんだから、他に言うこともないが?」


「でもクズノやカイトと違って当方貧民街の出ですんで……。色々とビテンをがっかりさせたかな……と」


「気負いすぎだ」


「本当に?」


「俺がこういうことで遠慮する人間に見えるか?」


「ははぁ。それは無いっすね」


「そう納得されるのもそれはそれで思わざるをえんが……」


「ビテン」


「何だ?」


「王国に帰順する気は無いっすか?」


「お前の一存で決められるのか?」


「それはないっすけど……」


「なら机上の空論だろう?」


 中々にビテンも容赦がない。


 生来のタチではあるのだが。


「ビテンなら楽勝っすよ。ちょいと実力を示すだけで宮廷魔女……魔術師になれるっす」


「まぁ逸材であることは否定できないしな」


 これを真顔で言うのである。


「で、それで俺に得することは?」


「当方の体を捧げるっす」


「はぁ?」


 意図不明だとビテンは言う。


「何でもするっす。ビテンが望むこと全て。当方を性欲の対象と捉えてほしいっす。無論マリンを蔑にする気は無いっすけど当方を都合の良い女だと思ってもらえれば幸いっすね。仮にの話ですけどペットや性奴隷や肉便器の扱いでも構わないっす」


「乙女が口にする言葉じゃねえな」


「当方処女っすよ?」


「無益な情報ありがとう。で、お前の肉体には対価があるんだろう?」


「然りっす」


「言うだけ言ってみな」


「ビテンには南の王国の宮廷魔術師になって欲しいんす」


「さっきも聞いたな。なんのために?」


「貧民街を救うために」


「因果が直結している様に見えないんだが……。宮廷直属ともなれば階位を与えられるだろう? 貧民街にとっては敵対存在じゃないか?」


「ですから貧民街の実情を知っているビテンに王国で発言力を持ってほしいんでっす」


「無理」


 断じた。


「それはやっぱりマリンが好きだからっすか……? マリンを第一に考えても良いんす。ただ副次的に付き合っていただければと」


「そういう意味じゃない」


 ビテンはいっそ冷静に否定した。


 マリニズムゆえにシダラの願いを蔑にしているという点もあるにはあるが、ビテンにしてみればそれこそ副次的だ。


「社会には弱者が必要なんだ」


「そんな社会は間違っている……ビテンはそう言ったじゃないっすか」


「ああ、それを否定する気は無い。だがな。理想と政治は別物だ。少なくともこの点において理想に殉じれば社会は破滅する」


「?」


 意味がわからないとシダラ。


「社会には偽善と真悪が必要なんだよ」


「偽善と……真悪……」


「そ。つまり弱者に対する必要最低限の施しと、その根幹である悪の存在だ」


「偽善こそ悪ではないのですか?」


「さっきからそう言ってる」


「むぅ」


「人間の精神って奴はな……基本的に低きに流れる」


「堕落するってことっすか」


「まさに。だからシルクの絞首台にかけて爪先立ちでやっと息が出来る環境を整える必要がある」


「どういうことっすか?」


「どの社会……どの文明でも同じことだ」


 ビテンは嘆息する。


「民衆は甘やかすとつけあがる」


「そうなんすか?」


「実際に貴族や宮廷直属レベルの人間を見ろよ。贅を凝らした生活してるだろう? これが堕落でなくて何なんだ?」


「だからこそ恵まれた者から財産をかっぱいで適正に分配すべきっすよ」


「そうすると今度は弱者が働かなくなる」


 ビテンの言葉には心付けと云うものが存在しない。


「弱者はその日その日を精一杯生きるために……というよりおまんま食いっぱぐれないために不条理な給料で働かざるを得ない。それを以て労働力となる。商人や使用人とはまた別の形での作用だな。であるからこそ誰もやりたがらない仕事に従事するし、それが王都を上手く回している」


「…………」


「一転して弱者に適正な受給をしてみろよ。もっと財産を寄越せなんて声を大にして反抗されるぞ」


「それは……」


「資産や財産ってのはな……上位一パーセントの人間が半分を占めてるくらいでちょうどいいんだよ。恵まれない弱者が労働力となって国を支えるという点においても……な」


「じゃあビテンが南の王国で発言力を持っても……」


「ああ」


 コックリ。


「意味ないな」


「ですか」


 がっくりとうなだれるシダラだった。


「というわけで離れろ」


「嫌っす」


 シダラはギュッとビテンに抱き付く


 マリンには無いふくらみがビテンに押し付けられる。


「でもビテンが南の王国で発言力を持ってくれたらシスターマリアも苦労しないと思うんすよ。ですから名を馳せてみませんすか?」


「自分でやれ」


「そのつもりではいるんすけど……」


「そのつもりだったのか」


「当方は独自の研究室を持ちたいんすよ」


「ん?」


「研究室を持てば学院から莫大な研究費がもらえるっす。ですからソレが今の当方の目標っす」


「なるほどね」


「何か無いっすかね? 一発で研究室を持てるような魔術は……」


「そりゃ山ほどあるぞ。飛天図書館にはな」


「火属性で」


「メギドフレイムとか?」


「覚えるの……手伝ってもらえませんっすか?」


「別に吝かではないがな」


「だからビテンは好きっす」


「はいはい」


 特に感銘を受けるようなことでもない。


「ていうかメギドフレイムってなんなんすか?」


「火の上級魔術」


「ほほう」


「だいたい神人語訳辞典三冊分くらいの章があるが……まぁお前なら許容範囲だろう」


「そんなに?」


「上級魔術ならこの程度の量は当然だぞ?」


 それを幾つも覚えているビテンの鬼才というか人外さが浮き彫りになる事実ではあったが。

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