ハーバリウムの小部屋
咲川音
ハーバリウムの小部屋
同室になった少女はニナと名乗った。
「いくつ?」
「十九」
実年齢より随分大人っぽい。流しただけの黒髪に、長い脚を強調するタイトな服もさることながら、その切れ長の目はこの世の有象無象を達観したように凪いでいた。
泣きわめくような子じゃなくて良かった、と思う。感情を発露させるにはこのワンルームはあまりにも狭い。
「ニナさんも病気なの?」
言ったあとで、明け透け過ぎたかな、と顎を引いた。とはいえ、ここにいる人間の殆どは未来の医療技術に命運を託した遭難者なのだ。
「……ニナでいいよ。暫くここで一緒に暮らすんだしさ」
「じゃあ、私の事もマコトって呼んで」
この部屋には、小さなキッチンとベッドが二つ。最低限度の家具と家電。
宇宙船とはいえ、地球のアパートとそう変わらない。
「も、っていうことはマコトは病気なの?」
「そうだよ。筋肉が段々衰えていって、最後には呼吸もできなくなっちゃうんだって。この前診断されて、慌ててこの船に乗せられたの」
「そう」
「だから、今は普通に生活できてるけど、地球に帰るのが長引いたら迷惑かけちゃうかもしれない。家事の分担とか」
「大丈夫。その時は私がやるから」
意外なことに、ニナはそのままの温度感で私の不幸を受け止めていた。この話をする時、元同級生や親戚は決まって息を飲み、私には熱すぎるエネルギーを発散させながら涙していたものだ。
「それで、ニナは……」
「失礼します。検温のお時間です」
ノック音が話に割り込んでくる。瞬間、ニナはほっと息をついてドアへと駆け寄った。
結局質問には答えてもらえなかったけれど、まあいい。誰にでも聞かれたくない事情の一つや二つあるものだから。
部屋間の行き来は禁止されているため、日に一度の問診以外はニナと二人、この部屋で過ごすことになる。
昔から合宿の類が嫌いだった私は、他人と共同生活なんてとげんなりしていたが、ニナといるこの空間は案外居心地が良かった。各々好きな時間に起きて、好きなことをして、食事の時間になるとフラリと同じテーブルに集まる。私といえば、持ち込んだタブレットで漫画を読んだりドラマを観たり、地球にいた頃より悠々自適な生活を送っていた。
それでも、タスクのない生活というのは内向的な人間にも刺激を求めさせるもので、数日も経つ頃には私とニナは隣同士に座り、会話をすることが多くなっていった。
「宇宙に来たら星が沢山見えて綺麗だろうなって思ってたけど、意外に寂しいもんだね」
「途方もない速さで移動してるからね。私たちの目では星の光が見えなくなっちゃうんだよ」
「へえ、詳しいね」
つやつやとしたチョコレートを放り込みながら、気の抜けた返事をする。こうしていると、長年の友人のようだ。
ニナの持ち込んだお菓子や紅茶はどれも高級品ばかりで、夜が永遠と続いているようなこの部屋で唯一彩りを放っていた。本当はもっと心して食べないといけないのだろうけど、沢山あるから好きなだけどうぞと言われて遠慮なく手を伸ばしている。実はどこかのお嬢様なのだろうか。
「ねえニナ、地球に帰ったら何年経ってるんだっけ」
「予定通りにいけば、二十年」
「二十年か……重いなあ、二十年は」
肺に溜まった絶望を押し出すように、長いため息をつく。
「お父さんとお母さんなんて、六十七歳になっちゃってるよ。古希だよ、古希。もうおじいちゃんとおばあちゃんじゃん」
そして、祖父母は確実にこの世に居ない。
「友達も三十七歳かあ。みんな結婚して子供とかいるんだろうなあ。私は高校生のままなのにさぁ」
「うん」
「でもさ、しょうがないよね。死ぬのは嫌だし、苦しいのはもっと嫌だし、まだまだやりたいこともあるしさ……」
私はこの部屋に来てから初めて涙を流した。ニナはいつもの、心地よい灯火をともした榛色の瞳で、私のくしゃくしゃになった顔をいつまでも見つめ続けていた。
「私さ、ずっと好きだった人がいたんだ。中学からの同級生で、同じ部活だったの」
その晩、天井を見つめながら私はほぼ無意識にそんなことを言った。ベッドの間に置かれたランプの橙が、二人の周りの闇だけをまろやかに溶かしている。
「自分で言うのもなんだけど、いい感じだったんだ、私達。毎日一緒に帰ってたし、電話もよくしてた。家族以外で最初に病気のこと話したのもアイツで……驚いてたな。それから何だか上手く話せなくなっちゃってそのまま……」
「そっか。マコトも恋してたんだね」
「でね、ここに乗り込む直前にメッセージ送って来ちゃった。『ずっと好きでした』って、ベタなやつ。返信があったとしてももう届かないけど」
「地球に帰ったら聞けるじゃない。もしかしたら――マコトのこと待ってるかも」
そう返すニナの声に、少し力がこもっている。
「まさか。二十年だよ。仮に私のこと忘れてなかったとしても十七と三十七なんて、未来がないじゃん」
「そんなことない! 十年だって待っててくれたんだから。次だって……次だってきっと……!」
突沸のような叫びに、私は慌てて半身を起こした。
「どうしたの、ニナ。何の話してるの」
ニナは我に返ったのか口を噤む。しばらくの沈黙の後、噛み締めすぎて真っ赤になった唇が解かれた。
「マコト、私ね、宇宙船に乗るの初めてじゃないの」
「えっ?」
「今回で二回目。一回目はちょうど一昨年の今頃、地球に着いたら十年が経ってた」
「ニナ、そんなに重い病気なの……?」
宇宙旅行を繰り返す人というのは少数ながら存在する。地球に帰ってみても有効な治療法が確立されておらず、次の未来に旅立つ難病患者だ。
「ううん、私は病気じゃないの。私は――大切な人のために、ここにいるんだ」
聞いてくれる? と身体を起こしたニナはベッドの上で膝を抱えた。私も姿勢を正してニナと向き合う。
「私は小さい頃両親に虐待されていて……ある時ひどい怪我を負ってね、そのまま児童養護施設に入れられたの」
部屋が薄暗くてよかった、と思う。私はこの話を、ニナのような平熱で聞くことが出来ないから。
「大人数で暮らすのって好きじゃないし、学校では事情を知った子達から毎日嫌なことを言われてたし、子供時代は散々だったなあ」
そこでニナは息をついて、自虐的に短く笑った。
「中学に上がった時、『あの人』と同じクラスになったの。あの人はいつも寂しい目をしてた。ある時、ご両親を事故で同時に亡くしてしまって、莫大な遺産と共に親戚に引き取られたと話してくれたの。家族がいない者同士、惹かれ合うものがあったんだろうね、私たちはいつも一緒にいるようになった」
私は教室の喧騒の中で、小鳥のように身を寄せ合うニナとその人の姿を思う。
「私は昔から身体が弱くて、何か病気を抱えているわけではないんだけど、熱を出して寝込むことが多かった。大人になっても変わらなかったから、ああ、私は長生きしないんだろうなって悟ったの」
言われてみれば、ニナはここに来てから何度か検温に引っかかっていた。疲れるといつもこうなの、寝てたら大丈夫だからと言い、翌日には本当にけろりとしていたから全く気にかけていなかった。
「それを何の気なしにあの人に言ったら、ひどく動揺してね……その日以降私が熱を出す度に泣かれちゃって、宥めるのが大変だった。人って幸せな記憶がある方が弱くなるんだよね。私が風邪を拗らせて肺炎で入院した日、お見舞いに来たあの人が泣きながら『宇宙船に乗って欲しい』と頼んできて」
「えっ? どうして?」
「『もう大切な人を失うのは嫌だ』って言ってた。私が生きているという状態がずっと続いて欲しいんだって。あの人は、死んだという事実が確定してしまったら何もかも終わりだという考え方をする人だったから……私が早死にするとしても、宇宙船の中で数週間も過ごしていたら、地球にいるあの人の中では十数年間、私は生きていることになる」
よく分からない理屈だ。
「それで、ニナはそれを受け入れたの?」
「もちろん最初は悩んだよ。でも私にはあの人しかいないから――あの人の哲学に全てを捧げてみるのも悪くないと思った」
ランプが照らすニナの微笑みが儚い。
「それで、船に乗ったの。マコトと同じ十七の時だった……地球に帰ったらあの人は本当に私のことを待っててくれた。再会して、あの人のマンションに転がり込んで二人で暮らしたの。あの人は見た目こそ随分大人になっていたけど、何もかも数週間前に別れた時のままで、私は幸せだった……」
「それなら、どうして今ここにいるの? そのまま一緒にいれば良かったのに」
「船に乗っても問題を先送りにしてるだけで、私が健康になるわけじゃないから。同棲してる間に何回も体調を崩して、あの人はまた不安定になっていった――だから今度は私から言ったの。次の宇宙船に乗るって」
「でも! そんなのっておかしい。その人はずっとニナが生きていて幸せかもしれないけど、ニナの幸せはどうなるの?」
こんなことを続けていけば、近い将来、ニナは一人取り残されてしまう。私は友人に貰った誕生日プレゼントを思い出していた。青い花が詰められた、夢みたいな透明の瓶を。彼女はハーバリウムだ。その「愛する人」はオイルに揺蕩うニナの生を、ただ外側から眺めているだけだ。
「そんなのって愛じゃない」
「愛だよ。少なくともあの人にとっては確かに愛だった――不器用な人なの。それに、私は元々一人だったから。幸せな夢を見ていただけ。何も不幸じゃない」
「でも……その人が今この瞬間、生きているかも分からないのに。その人だって死なない保証はないのに」
「その時はその時だよ。あの人は私が生きている世界で死ねたんだな、良かったなって思う」
私はもう何も言うことが出来なかった。数週間前に知り合ったこの少女の幸せを祈っているのに、理解し得ない価値観を壊すほど独りよがりにもなれなかった。
「この船に乗る前に、あの人と海辺を歩いたの。手を繋いで、ずっと夕日を見てた。その時にね、私もこの瞬間が永遠に続けばいいのにって思った。あの人の中で私が永遠に生きていて、そして死ぬのなら、二人の時間は美しいまま完結するんじゃないかって、この世に形として残るんじゃないかって思った。だからこれで良かったんだよ」
地球に帰還する日まで、私たちはいつも通りに過ごした。気まぐれに起き、食べ、ベッドに入ってからも夜通し語り合った。恋愛以外の全てを話した。
「マコト見て。地球が近づいてくるよ」
窓辺に立つニナの横に並んで外を見る。私たちの故郷に帰る時が来たのだ。
「いよいよだね」
「うん」
「私、マコトといて楽しかったよ」
私たちの別れはもっとドライだと思っていたのに、そんなことを言うものだから寂しさに流されそうになってしまう。
涙声を誤魔化すように早口で言葉を返した。
「ニナはまだ旅を続けるの?」
「分からない。あの人が私と生きたいと言うのなら今回で終わりだし、また永遠が欲しくなったらここに戻ってくるかもしれない」
「そう……ねえニナ」
私はニナのたおやかな指先を握った。
「いつかニナに帰る場所がなくなったら、その時は私に会いに来てよ」
「でも、いつになるか分からないよ」
「いいよ。私はニナに、永遠は求めないから」
想像する。歳を重ねた自分の前に、旅を終えたニナが現れる日を。
「そしたらさ、またこの部屋の続きをしようよ。一緒にドラマ観たり、お菓子を食べたり、そういうことをさ」
「ありがとう、マコト。前向きに検討しとく」
その頃私たちは母娘のように歳が離れていて、けれど、この前別れたばかりのように「元気だった?」と笑うのだ。
ハーバリウムの小部屋 咲川音 @sakikawa_oto
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