第7話 決意
赤い眼の黒猫を連れて、僕は重い足取りで家についた。
家に帰るともう話し声はしなかった。明かりが灯っているところを見ると、ご主人様は起きていらっしゃるのだろう。
かなり遅くなってしまったから怒られるかもしれない。
……いや、絶対に怒られるだろう。
覚悟をして入らなければならない。
ガーネットを家の外に残して、入ってこないようにと小さい声で言い聞かせた。
「いい? 絶対に入ってきたら駄目だよ? どんな物音が聞こえても、絶対だよ」
ガーネットは尻尾をゆらゆらと動かすばかりで何も言わない。というか、言えない状態だ。
真剣に黒猫に話しかけている僕の姿を誰かに見られたら、もっと僕は変な目で見られるだろう。
ガチャリ
突然扉が開いたことに驚いて、僕はビクッと身体を硬直させた。
ゆっくりを振り返ると銀色の髪をかき上げながら、扉の空いた場所に寄りかかって僕を彼は見下ろした。
「お前……また随分と遅かったじゃねぇか。俺に内緒で夜遊びか?」
明らかに怒っている様子だ。
声が冷たい。
その目を見て僕は恐怖の色一色に染まる。
「ご、ごめんなさいご主人様」
慌てて謝罪をすると、ご主人様が僕の首の鎖を掴みあげた。引っ張られ、強制的に上を向かされる。
「何度言っても解らねぇな? 身体にまた教えてやるよ。いたぶられるのも好きだろ?」
どうしようと僕が頭の中が真っ白になって混乱している中、「にゃーん」とガーネットが鳴いた。
「あ? 猫……?」
ご主人様が手を伸ばす。ガーネットに触れようとしたとき、ガーネットはその手を切り裂こうと鋭い爪を出したのを僕は見逃さなかった。
ガリッ!
咄嗟にご主人様の手をかばい、僕は代わりにガーネットの爪の餌食になった。
血がしたたり落ちるほどの傷が僕の手についた。
――本気でひっかいたな……
ガーネットの手にも同じ傷ができたに違いない。黒い毛並みで血は見えないが、確かに傷がついているはずだ。
「……ごめんなさい。僕が拾ってきてしまった猫がご主人様に粗相を」
血が出た手を強く握りこむ。しかし傷はみるみる塞がっていったがそれを見られる訳にはいかなかった。血だけがそこに残る。
「……またお前、俺の許可なく傷つけたな……」
鎖を改めて掴み、強く引いて家の中に引きずられるように入った。振り返ってガーネットを見たら不思議そうな顔をしていたような気がする。
猫の表情は解らない。猫でなくても、ガーネットの表情は常に険しくて何を考えているのか解らない方だ。
抵抗するわけでもない僕は家の中に引きずられていった。ご主人様は僕の首の鎖を壁にぶら下がっているもう一つの鎖と繋げる。
――これでいい……
ご主人様の気が済むまで僕の身体をいたぶればいい。僕は一生懸命許しを乞うから、あなたの気に入るように鳴くから。捨てられないならそれだけでいい。
心残りは僕の身体の痛みはガーネットにも伝わってしまうことだ。
しかし、僕のご主人様をひっかこうとしたんだからその報いは当然だ。
僕は覚悟を決めて、ご主人様の怒っている顔を縋るような目で見つめた。
「お前、なんで帰ってくるのが遅かったんだ?」
「…………」
「早く答えろ!」
パン!
右の頬を叩かれた。平手打ちだった。
ご主人様は優しい。
拳で殴ればいいのに、僕の顔のこと気にしてくれているのかな。
こんなときでさえそんなことを考える。
ご主人様を見ると、怒りと悲しみの混じった目で僕を見ていた。僕は視線を合わせていられずに床に視線を落とした。
「中から……話し声がしましたので、お邪魔してはいけないかと思いまして……」
「あぁ……はぁん。どんな話をしていたか聞いたのか?」
ご主人様はニヤニヤしながら、僕の首の鎖を引っ張る。
「いいえ……」
「本当は気になって聞いていたんじゃないのか?」
「そんな
ジャラ……首輪の鎖がジャラジャラと静寂をかき消すように音を鳴らす。
冷たい音。枷の音。聞きなれた冷たい音だ。
「それで猫と遊んでたってか?」
「そうです……」
「随分狂暴な猫だったのに、お前には懐いたのか?」
「……危うく、ご主人様がお怪我をするところでした……」
本当にご主人様がお怪我をしなくてよかった。
僕は心の底からそう思っていた。僕は自分の手の傷が治っていることだけは隠さなければいけなかった。必死に掌の方をご主人様の方に向ける。
「……お前、そういうところあるよな」
「?」
ご主人様が悲しそうな顔をした。もう怒っていない。
きっと僕がいつになってもきちんという事を聞けないから悲しんでいるんだ。
僕はそう思った。
「ごめんなさいご主人様……言いつけを守れませんでした。でも傷ついたのが僕の手で良かったです」
「馬鹿野郎……」
僕が話しながら考え込んで目を泳がせていると、ご主人様は僕を抱きしめてくれた。
暖かい身体。ご主人様の匂い。銀色の綺麗な髪の毛。
突然のことに僕は理解が追い付かなかった。
「ご主人様?」
「俺の為に、自分が傷ついても構わないって思うのはやめろって言っているのが解らないのかよ……」
ご主人様が何を言っているのか解らなかった。
僕はご主人様の奴隷なんだから。この身を呈して守るのは当たり前なのに。
いくら傷ついても構わないと思っているのに。
「僕はあなたの奴隷ですから……」
僕は奴隷なんだから、もっと好きなように使ってくれていいのに。
殴りたかったら殴ればいいし、蹴りたかったら蹴ったらいい。殺したいなら殺せばいい。
僕はそうでありたい。あなたにだったら僕は殺されることすら抵抗しないのに。
抱きしめてくれるご主人様の腕が、少し震えているような気がした。どうしたのだろう。いくら考えてもそれは僕には解らなかった。
ジャラ……とご主人様は僕の首の鎖を壁から外して、僕を引っ張ってベッドの方へ連れて行かれた。そして乱暴に投げ出される。
「お前、今夜は覚悟しろよ? すぐには楽にしてやらねぇからな」
その言葉通り、夜は僕はご主人様の気が済むまで
息が詰まる時間。快楽が苦しみにすら感じる程に、何度も何度も、繰り返し繰り返しソレは行われた。
一体どれだけ僕が尽くしたら、僕が彼を愛していると伝わってくれるのだろう。
どれだけ尽くしても、彼が僕を愛することはない。
それでいい。
傍にいられることが何よりも幸せだから。
事が終わり、ご主人様が荒い息を整えているさ中……
ご主人様にいつもの発作がおきた。
「ゴホッ……ゴホッ……! カハッ……」
激しく咳き込むご主人様の裸体の背中を摩る。
お薬を取ろうと僕が離れようとしたら、ご主人様は僕の腕を掴んで首を横に振る。
「ですが……」
ご主人様の咳が落ち着くまで、僕はずっと背中を摩っていた。
こんなことしても、ご主人様の咳は止まらないのに。
気持ちはいつも焦っていたがこんなに酷く咳き込んでいるのは初めて見た。
僕がうろたえていると、ついに恐れていたことが起こった。
ご主人様が口を押さえていた手を口から離すと、僅かにだが血がついていたのが見えた。
「……!!」
それを見た僕は、頭が真っ白になった。
こんなに悪くなってきてしまっているなんて、僕は現実を受け入れられなかった。
僕は正気を失い、強く強くご主人様を抱きしめた。
なんで僕には何もできないんだ。僕はご主人様しかいないのに。
もう、僕にはご主人様しかこの世にいないのに。
――お願い、僕から取り上げないで。お願い……何でもするから、ご主人様を僕からとらないで……
僕はそう願った。何度も何度も願った。
ずっとご主人様の前では泣かないようにしていたが、堪えきれずに僕は泣いた。
「ご主人様ぁ……っ…………死んじゃ嫌です……ご主人様……っ!」
涙が溢れる度、ご主人様も少し困ったような表情をしたが、泣きじゃくっている僕にはその表情は見えなかった。
視界の光が涙で乱反射して何も見えないという乱暴な説明をするつもりはない。
違うんだ。
僕が現実なんて何も見たくないって思っているから、何も見えなくなった。
僕は何も見えていない。
見ないようにしてきたんだ。
いつでも、現実を知っていながら、きっと大丈夫、きっと大丈夫っていう希望的観測でここまできた。
――違う
全然大丈夫なんかじゃない。
「バカ。死なねぇよ。なに泣いてんだ」
「だって……! 全然身体……よく……っならない……し……」
「生まれつきだって言ってんだろ? そんなに泣くなよ」
ご主人様が僕の頭を撫でてくれた。
それがもっと苦しくなって、辛くなって、悲しくなって、情けなかった。
――僕は魔女なのに……強い魔力があって……誰よりも強いのに、どうしてご主人様の身体を治して差し上げることすらできないんだろう
こんな力別に欲しくなかった。こんなのいらなかった。そのせいでみんなみんな壊れていった。
僕が壊してしまったんだ。
ご主人様を守る為だけに力を使おうって決めたのに、ご主人様はどんどん弱っていっている。
――こんなの、耐えられない……
泣き止むことのない僕を、ご主人様が慰めてくれた。
こんなんじゃ駄目だ。僕がご主人様を支えないといけないのに。
妙に優しい今夜のご主人様の手を、僕はゆっくりをほどいた。ご主人様に顔を向ける前に、僕は自分の腕で涙を拭う。
そして彼の顔を見た。今まで彼が僕に見せた事のないような表情をしている。困ったような、うろたえているような、そんな表情だ。
その顔を見て僕は、決心した。
「……ご主人様…………僕が、いなくても平気ですか?」
◆◆◆
ご主人様の家の庭に僕は座り込んでいた。月明かりが優しく僕のことを照らしている。
本当ならこんなに泣いたら目が酷く腫れてしまうだろう。
赤い目は白目まで充血して目の全体が赤くなってしまう。瞼も腫れてしまうはずだった。
しかし僕はまだ強い再生能力を保持したままのようだ。目は触ってみたところ腫れていない。だが、ガーネットと契約を交わしたときよりも治りが遅くなっていることに気が付いた。
恐らく、僕の血を飲んだ直後には爆発的に回復力があがるのだろう。時間が経てばいつも通りの再生速度に戻るらしい。
「はぁ……」
冷静にそんなことを考えていると、幾分か気持ちが落ち着いてきた。
もう、薬じゃご主人様の身体はもたない。
僕は治癒魔術の最高位魔女を探す決意をした。
ガーネットの傷をたちどころに治したと聞いたし、病を治せるのかまでは解らなかったが、ここでこうしていてもご主人様はもう長くはない。
――おかしいよね……
元々魔女と人間の寿命は違うから、どうあがいても僕はご主人様を看取ることになるのに。でも、この世の摂理を捻じ曲げてでも僕はご主人様に生きていてほしい。
ご主人様が死んでしまったら、僕は生きていけない。
とはいえ、流石に治癒魔術を使える魔女を探しに行くなんてご主人様に言えなかった。
身体を治すことができるような薬草を探しに行くとご主人様に言ったら、酷い喧嘩になってしまった。「じゃあ俺もつれていけ」という話から「そんな危険なことはできない」という反論に、「危険なのはお互い様だろうが」と当然のように反論が飛んでくる。
僕にとっては外は危険じゃない。少しの魔女と戦うだけなら僕を凌駕できるほどの強い魔女は早々いない。
しかし「破壊を司る最強の魔女なんです」なんて、そんなことは言えない。
「はぁ……」
主従関係で喧嘩なんて本当に何しているんだろうか。
ご主人様に逆らってでも死んでほしくないっていう僕のエゴだっていうのは解っている。
真夜中なのに眠れなくて、僕は外で自分の育てている薬草をぼんやりと見て今後のことを考えていた。
ご主人様の寝室へ戻りたい。一秒でも本当は離れたくない。目を放している時間が長いほど、僕はどんどん不安になる。
「にゃーん」
猫の声が聞こえてきた。そちらを見なくても、その猫がどんな色をしているのか、どんな瞳の色をしているのかが容易に僕は分かった。
ガーネットが僕の真横にやってきて座る。ちらりと僕が視線をやると、ガーネットは月を見ていた。
視線に気づいた彼は、僕に視線を向けてくる。その赤い瞳には、月の光が反射して美しく輝いていた。
「……僕のご主人様をひっかこうとするなんて、なんてやつだ」
猫の姿のままのガーネットに文句を言うが、涼し気な様子で意にも介していない様子だった。
その様子を見て、ガーネットとも喧嘩をしても仕方がないと僕は漠然と考える。
「…………彼が僕の大事な人なんだよ」
僕はボソボソと覇気なく話し出した。
ガーネットは静かにそれを聞いている。
「僕はもうあの人しかいない。あの人が死ぬなら、世界なんて滅んだ方がましだ」
まだ涙がボロボロと出てくる。
――格好悪いな、僕……
ご主人様の前でも、ガーネットの前でもボロボロ泣いてしまうなんて。
「側にいたいよ……でも、探しに行かなくちゃ……ご主人様が死んじゃったら、僕もう生きていたくないよ」
自分の腕に強く爪を立てる。痛い。でも心の痛みはこんなものじゃない。
こんなにどうしようもなく苦しいのは何故なんだろう。
なぜ心は、際限なく相手を求めてしまうのだろうか。独りでも平気になればこんな思いはしないのに、独りになった途端に僕は生きる意味そのものを失う。
魔女に怯えて逃げて生きているのは人間と変わらない。魔女に捕まればまた実験の日々に逆戻りか、あるいは今度こそ殺されるかもしれない。
――いっそ、世界を滅ぼしてしまいたい……
世界は、僕が滅ぼそうとしなくても、魔女の女王のゲルダが滅ぼしてしまうだろう。人間にも魔族にも未来はない。
そんなことは解ってる。
「僕ね……魔女に両親を殺されたんだ。そのあと、拾ってくれて育ててくれた人も魔女に殺された。もう大事な人をこれ以上亡くしたら…………こんな世界……見たくなかった。知りたくなかった。守りたいものなんて何もなければよかった……――――」
僕はボロボロと涙を流し、みっともなく泣いた。
なんでこんなに涙が出てくるんだろう。ガーネットはただ僕の方を見ていた。多分僕の感情は魔族のガーネットにはよく分からないだろうけど、それに文句をつけてくるわけではなかった。
そんな彼の隣でずっとずっと泣いていた。身体中の水分が全部涙で出て行ってしまうのではないかと思うほど。
時間が随分ゆっくりに感じられた。まるで世界に僕しかいなくなったような感覚に襲われる。
それと同時にご主人様に捨てられたらどうしようという不安が募る。
――そうなったら一人になってしまう
そう考えた刹那、僕の隣にいる猫の存在が目に入る。
僕が泣いていることなど気にも留めていない様子で月を見ていた。
「そうだよね……もう、独りじゃないもんね……」
「…………」
ガーネットは一言も口を開かない。
「…………」
僕がガーネットに話をしていたことを、ご主人様が静かに聞いていたことを僕は知らなかった。
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