2-2

 鞄の中にラブレターが入っていることは何度も確認した。

 玄関の扉を開けるとすぐに甘木奈々子の家が視界に入った。この辺りは戸建てが立ち並んでいて、どの家も何年も住人の入れ替わりがないので、ほとんどの人が顔見知りだった。

 奈々子の家のポストに視線が行く。

 あそこに入れるという案も考えたが、家族に発見されて仮に中を見られたら家族みんなからからかわれることになる。そんなの恥ずかしいどころの話ではない。きっとトラウマになる。心的外傷ストレスになる。何年もそのことがフラッシュバックし、きっとこの先誰にもラブレターを渡すことができない。必然的に恋に臆病になり、独りを愛するめんどくさい親父になり、疎まれながら生涯を終えるんだ。

 そんなの惨めすぎる。

 やはり直接渡すのが安全だろう。

 敬輔は奈々子の家の前で待つ。小学校の頃から朝一緒に行くのは当たり前のことになっていた。

 心臓がどきどきしているのがわかる。

 どうやって渡すのが一番いいだろう。目の前で読んで欲しくないし、友だちといるとき開けられてしまってみんなで回し読みされる危険も回避したい。

 やっぱりそれとなく内容を伝えておいたほうがいいだろう。それならきっと奈々子はひとりで読んでくれるはずだ。

 呼吸を意識して遅くする。自然と汗ばんでくる。夏本番の暑さが近づいたせいだけではない。緊張で体温が上がっているのだ。

 頬が赤くなっていたら恥ずかしいなと思い、敬輔は手で頬をこすった。

 すると、甘木奈々子の家の玄関が開いた。中からほぼ毎日見ている姿が現れる。

 小柄で華奢な体つき。髪型は少しくせのあるショートカット。目はくりくりと大きく、笑うとえくぼができるのが可愛い。白いブラウスに可愛らしいリボン。膝上に調整されたチェックのスカートから伸びる白い足。すべてが朝の日差しを反射してキラキラと輝いている。

 奈々子は敬輔の顔を認めると小さく手を振った。

「ごめん。待った?」

 自分の体の奥底から何かがあふれ出るのを感じる。自然と口元が緩む。体の奥底からあふれ出した暖かい感情はあっという間に全身を満たす。細胞全てが幸せを叫んでいる。

 やっぱり奈々子のことが好きだ。

 奈々子の申し訳なさそうな顔を見ながら敬輔は確信していた。この思いを奈々子に伝えたい。いや、伝えなければならないと思った。

 いや、その前にさきほどの挨拶に返事をしなければ。

「そうでもないよ」

 ああ、しまった。素っ気なく答えてしまった。

 もっと優しい言葉をかけられなかったのかと後悔するが、染みついてしまった態度はなかなか変えることができない。

「でも珍しいね。敬ちゃんが先に起きてるなんて」

 奈々子は笑いながら敬輔の隣にくる。

 近い。

 近いよ。

 自分と奈々子の間の空気だけ急激に上昇している気がする。このままいくと、上昇気流によって二人の間に雲ができてそのまま雨が降ってしまうんじゃないだろうか。

 それはそれは、困ったことになってしまう。

「今日はたまたま早く目が覚めたんだよ」敬輔は答える。

 二人は並んで歩き出す。

「へー。暑かったからかな? わたしも昨日というか今日というか、なんかおかしくってさ。えっと、その、そういうことじゃなくて、暑くて寝苦しくてさ。起きたらこうやって掛け布団蹴っ飛ばしてたんだ」

 奈々子は自分に呆れるように笑っている。

 呆れ顔も可愛い。

 どういうことだ。すでに朝から色々なバリエーションの表情を見せてくれている。もしかして今日は表情キャンペーンの日だっただろうか。

 敬輔は奈々子と自分の距離を測った。少し手を動かせば触れられる距離に奈々子はいる。

 勇気を出せば手を繋ぐことだってできるかもしれない。

 そうだ。鞄の中に入っているラブレターを渡せば、今までより進んだ関係になれるんだ。

 ……渡せれば。

 肩にかけた鞄が少し重くなった気がした。

「暑くなってくると、かき氷が食べたくなってくるよね。あと冷やし中華とか」

 敬輔が二歩進む間に奈々子は三歩歩いている。敬輔は奈々子が早足にならないように歩調を調整する。

「敬ちゃんはなにが食べたい?」

「それは夏にってこと?」

 おっと危ない。奈々子が四歩進む間に三歩も進んでしまった。これでは並んで歩けなくなってしまう。少し前屈みになり、自分と奈々子の足を凝視しながら注意深く足を動かす。

 それにしても奈々子はなんて足が小さいのだろう。見たところ奈々子の靴は握り拳程度の大きさしかない。それで全身を支えているのだから、奈々子はやっぱりすごい。普通の人間なら確実にバランスを取ることができないだろう。

「もちろん。敬ちゃんはお暑い夏に何を召し上がりたいのかな?」

「夏かー。焼きそばとかいいね」

「それもありだね。あー、おなか減ってきた」

「奈々ちゃん朝食べてないの?」

 敬輔は視線を上げて奈々子を見る。

 敬輔は奈々子のことを奈々ちゃんと呼んでいる。恥ずかしいからやめたいのだが、物心つく前から奈々子のことを奈々ちゃんと呼んでいたので、今さら変えたら意識しているみたいで変えずらかった。結局未だに奈々ちゃんと呼んでいる。奈々子も昔から敬輔のことを敬ちゃんと呼んでいる。

「ううん。食べたよ。パンと牛乳。実際いま焼きそば出されたら確実に食べられないね」

 奈々子は見た目そのままで小食だった。

 敬輔は自分の鞄を見る。ラブレターのことを意識する。渡すタイミングがあったら実行するべきだ。朝は一緒に登校するが、帰りは奈々子は仲の良い上戸美姫と一緒に帰るので、二人っきりになれる時間は今日一日の中で今が最後かもしれないのだ。上戸美姫にたまには一緒に帰るのをやめて欲しいと懇願したのだが、その願いは瞬時に拒否された。

 敬輔は鞄のファスナーをさりげなく開ける。鞄の中、ノートに挟まれている白い封筒の角が見える。

「それよりも聞いてよ敬ちゃん」

「んー」

 敬輔は気のない返事をする。

 意識は完全にラブレターに向けられていた。

「わたし二十五メートル泳げるようになったんだよ」

 奈々子は自分でぱちぱちと小さく拍手をした。

「そうかー」

 なんと言って渡せばいいのだろう。

 これを読んで欲しい、というのはなんだか味気ない気がする。

 ひとりの時に読んで、これは学校の教室に着くまでが気まずくなりそうだ。

 いや、気まずくなりそうだなんてそんなことに怯えちゃダメだ。渡せればいいんだ。どんな形であれ渡すことに意味がある。

 いや、でもちょっと待て。

 やっぱり振られた時のことも考えておいたほうがいいんじゃないだろうか。振られたらこんなに楽しい朝の時間を永遠に失うことになるんだぞ。

 消極的な考えが首をもたげる。

「ねえ。敬ちゃん聞いてる?」

 奈々子の不満そうな声に慌てて横を向いた。

「ごめん。ちょっとぼーとしてた」

 奈々子は唇をとがらせる。

「最近敬ちゃん冷たいよね」

「えっ? なんでだよ?」

 焦った。

 奈々子に対して冷たくしている意識はなかったが、奈々子を異性として意識するあまりに距離を取るような態度になってしまっていたのかもしれない。

「まあ、いいけどさー」

 奈々子は不満そうに地面に転がる石ころを蹴飛ばした。

 奈々子が不機嫌になっているのが見て取れた。

「ごめんって」

「気にしてないよー」

 奈々子の声は怒りを孕んではいなかったが、それでも敬輔は奈々子の気分を損ねてしまったのではと焦っていた。鞄を見る。とてもじゃないが、この雰囲気ではラブレターは渡せそうにない。ため息をついて敬輔は鞄を閉じた。

 横を見ると奈々子は眉をひそめて頬を膨らませていた。

「ため息ですか。そうですか」

 呆れたように何度も小さく頷いている。

「ち、違うって。そういうことじゃなくて」

 慌てて弁明しようとするが、上手い言葉が出てこない。

「わたしの話よりも気になることがあるんだろうね」

 奈々子はそっぽを向いてむくれた。

 歩調を早めて敬輔よりも前を歩き出す。

 怒らせてしまったことを焦りながらも、自然と頬が緩むのを抑えられない。笑っている奈々子は当然のごとく可愛いが、拗ねている奈々子もまた可愛すぎる。

 離れていく小さな背中もこれまた可愛いので、このままじっと見ていても幸せなのだが、そうも言っていられないので謝っておくべきだろう。

 敬輔は足を速めて奈々子を追いかけた。

「奈々ちゃんごめん」

「いいんですいいんです」

「おれが悪かったよ。奈々ちゃんの話聞きたかったのに他のことに気を取られてた」

「しょうがないよ。世の中にはわたしの話より大切なことが溢れかえってるから」

「奈々ちゃんの話聞いてるのが一番楽しいよ」

「それならもうちょっと興味持ってくれてもよかったのに」

「どうすれば許してくれるの?」

 奈々子はきっと敬輔を睨む。

「でんぐり返しで世界三週してくれたら喜んで許す」

「……それはさすがに無理じゃ」

「つまりはそういうこと」

 なるほど、奈々子はこういうところもセンスに溢れている。

「奈々ちゃん。ごめん。ほんとにおれが悪かったよ」

 敬輔は深く頭を下げた。

 奈々子は少しの間黙ってそれを見て、ゆっくりため息をついた。

「それじゃあ頭を上げてくれたら許す」

「それって」

「そもそもそんなに怒ってないよ」

 奈々子は呆れたように笑った。

 敬輔も笑顔になる。

 ああ、この笑顔を独り占めにしたいという願いを叶えることはできるのだろうか。

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