甘木奈々子
3-1
6月10日の夜。
松成敬輔が机にかじりついて一心不乱にラブレターを書いていることなんてつゆ知らずに、甘木奈々子はベッドに寝転がりながら考えていた。
今までの人生の中で、これほどまでにひとつのことを考え続けたことがあっただろうか。同じことを考え続けているのに、一向に答えにたどり着けないでいる。
いや、正確に言えばそうではない。答えは目の前にあるのに、そこに足を踏み入れるのが怖くて、何度も何度も答えの前で行ったり来たりしているのだ。
脳みその大部分を考えごとのために使っていたので、夕食の時は納豆の豆を間違えて鼻から身体に摂取しそうになったし、お風呂では全身をお湯で流した後にボディーソープで身体を洗ってそのまま出そうになった。ぬるぬるの身体にバスタオルをあてて、慌てて我に返ったのだ。
自分でもどうかしてると思ってる。
けど、それほどまでに今回のことは奈々子にとって大きいことなのだ。
それは最近の松成敬輔の態度と、自分の敬輔に対する感情についてだった。
チェックのパジャマを着て、何度も寝返りを打ちながら思考を巡らせる。
近頃敬輔が妙によそよそしいというか、冷たかった。自分と距離を取ろうとしているように思える。奈々子の目を見ないし、奈々子が話していても上の空で聞いていないことが多い。時折反応もぎこちなくて、他人行儀というか、今までと違う態度だった。
そしてついに決定的なことが今日起こった。それは放課後の教室、いつものように授業が終わって親友の美姫と帰ろうとしたら、急に敬輔が美姫を呼び止めたのだ。
敬輔はこちらを一瞥すると気まずそうに美姫をちょっと離れた場所に呼び、そこで声をひそめて懇願しだしたのだ。ただ、敬輔も予期していなかっただろうが、その敬輔の小声は奈々子の耳にまできちんと届いていた。
それは美姫に奈々子と一緒に帰るのをたまにやめてくれないかということだった。要は別々に帰って欲しいと言うことだ。
わかっている。
こちらもそこまで鈍いわけではない。これは、敬輔が美姫と一緒に帰りたいということを本人に伝えているのだ。敬輔はしきりにこちらの様子を窺いながら美姫に何度も頼み込んでいた。
なぜ敬輔は美姫と一緒に帰りたいのか。
自分なりに色々と仮説を立ててみたが、どうやっても答えは一つしか導き出せなかった。
松成敬輔はきっと上戸美姫のことが好きなのだ。
奈々子と視線が合わなくなったのと同時期に、敬輔は美姫の方ばかりを気にしているようだった。
「敬ちゃんは美姫ちゃんのことが好きなんだ……」
そうとしか思えない。そしてそうとしか思えないとしたら、自分の感情はやはりそういうことなんだろう。
奈々子は枕を自分の顔に押しつける。
「わたしは、敬ちゃんのことが好きなんだ」
くぐもった声が自分の部屋の空気を震わせる。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
こいつは困ったことになった。
なにせ恋なんてものを今まで経験したことがない。ドラマや漫画では見てきた。恋をしている友達の話を聞いたりもした。だから、恋というものは知っている。
けれどもそれは自分にとってどこか遠くの世界のもので、テレビで見ているハリウッドスターがこの世界のどこかに存在するのと同じように、どこか現実離れしたものだった。
その恋が突如として自分の元にやってきた。
しかも想像と違って全然甘酸っぱくない形で。
「どうしましょ」
奈々子は枕をどけて目を開く。
視線をきょろきょろと巡らせて自分の部屋を眺める。
本棚に並べられた漫画。
本棚の上に乗ったクマのぬいぐるみ。
その脇に置かれたスペースシャトルの小さな模型。
机の上に置かれた明日の授業で使う教科書とノート。
平静になろうと思うが、心が暴れ回って落ち着かない。
自分は今恋をしている。けれどもその事実を喜べないでいる。
松成敬輔は上戸美姫のことが好きだ。そう予測を立てたときから、胸の奥がむず痒かった。
その仮定をすんなり自分の中に落とし込むことができなかった。
敬輔が突然自分から遠く離れた存在になった気がした。今まで奈々子にとって敬輔はいつでも自分の側にいてくれる存在だった。けれど、もし敬輔が美姫のことが好きなのだとしたら、もう今までのように敬輔に頼ることはできなくなる。
だって敬輔は美姫のことが好きなのだ。ならばその他の女子から親しげにされたり、何か頼まれごとをされるのは面倒でしかないだろう。
そうだ。自分は今まで幼なじみという立場をある意味で利用して敬輔に甘えてきたのだ。それも、物心がつく前からそうしてきたので、今ではその関係が当たり前になってしまっている。
なんでここまで頼って甘えてきたのか。
その感情を分析すると、これまた一つしか答えが出せなかった。
「わたしは、敬ちゃんのことが好きなんだ」
今日何度も何度も口にした言葉を再び漏らした。
家が近かったからじゃない。
いつも同じクラスだったからじゃない。
いつだって優しくて頼りがいがあって明るくて誠実な敬輔のことが好きだったから、側にいて欲しかったのだ。
「……これが、恋」
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
仮に今までの予想が全て正しかったとしたら、敬輔と美姫はそのうちつき合う可能性があるということだ。そうしたら自分はどうなるのだろう。甘木奈々子はどうなるのだろう。
大好きな友だちと、大好きな幼なじみが同時にいなくなったら、自分が一緒にいられなくなったら、どうすればいいのだろう。
「三人でいつまでも一緒に暮らしましたとさ」
三人で一緒に手を繋いで登校し、三人でお昼を食べ、三人で一緒に下校する。
そんな未来を想像してみるが、どう考えても自分が邪魔者でしかなかった。
「二人がつき合ったら、いったいわたしは誰とトイレに行けばいいんでしょ」
こんな時にトイレの心配をしているんだから、悲観的なのか楽観的なのか分からなくなる。
甘木奈々子は考え続けた。考え続けていると、ふとそもそも自分は何を考えているのだろうと思い出す。何を知りたくて、何の答えを探して考えているのだろう。
奈々子はがばりとベッドの上で身を起こした。
「だめだ。寝られない」
空気を読んでいるのか、睡魔がいつの間にか荷物をまとめて部屋から出てしまっている。時計を見るともうすぐ日付が変わろうとしていた。
奈々子は起き上がって部屋の扉を開ける。リビングからの光が廊下に漏れ出ていて母がまだ起きていることを知らせた。
餅は餅屋。恋愛なら既婚者といったところでしょうか。
足音を立てないように忍び足になりながらリビングへ顔をのぞかせる。母は湯気が立つ何かを口に運びながら通販のカタログに目を通していた。
奈々子の気配に気づいたのかその視線が持ち上がる。
「どうしたの?」
奈々子はそそくさと母の隣に立ち、すとんと腰を下ろした。
母が飲んでいた飲み物を見る。美味しそうなココアだった。
「飲む?」
母の問いに無言で頷く。母がココアを作っている間、残った通販のカタログをぺらぺらとめくる。家具のカタログだった。
父がNASAに単身赴任に出てから家の内装はだいぶ変わった。父が大切に飾っていた月の欠片とか、未確認生物の模型だとかは丁寧に段ボールに詰められて屋根裏に収納されている。
視線を少し上げる。母が購入した小ぶりのシャンデリアが輝いでいる。
父の好きなものが減っていく代わりに、母の好きなものは増えていった。そして父が帰ってくる日が近づくにつれてその模様替えはラストスパートを迎えている。
「それで、どうしたの?」
差し出されたココアをちびちびと口に含む。甘い香りと熱が身体の中を流れていく。
さてさて、どうやって切り出したものか。
「敬ちゃんのことでしょ?」
口からココアが飛び出た。
「な、なんで?」
「だって顔に書いてあるし」
そんなまさか。両手で顔に触れてみるが自分じゃわからない。
もしかして、あまりにも神経をすり減らしてしまって自分でマジックで頬に書くという奇行をしてしまったのだろうか。
慌てていたら母に笑われた。
「例えよ例え。こんなにかわいらしい奈々ちゃんとそういう話ができるようになるとはね」
母はにやけた顔で奈々子をのぞき込む。
「いや、まだそのことって決まったわけじゃ」
「違うの?」
言葉に詰まる。母にはかなわない。
「……その通りです」
ならば話は早いはずなのだが、なかなか最初の言葉が出てこない。
口を開くが言葉が出てこず、乾いた喉をココアで湿らすの繰り返し。
そんなもじもじしている奈々子を楽しそうに母は眺めている。
「奈々ちゃんはかわいいね」
「そんなことないよ」
「いーや。かわいいね。間違いないよ」
「……そうかなあ」褒められるとそんな気がしてくるから不思議だ。お調子者なのだろう。
「奈々ちゃんはそのままでいれば大丈夫よ」
「でも、このままじゃなあ」何もしなかったら敬輔と美姫がつき合ってしまう。
母は思案する顔をしたあと秘策を思いついたように手を叩いた。
「ちょっと待ってて」
そう言って母はリビングから出ていき、がさごそと何かを漁ったあと手に布状のものを持ってきた。
「あったあった。奈々ちゃん明日これ履いてきなさい」
奈々子は眉をしかめてそれを見る。
そいつは父がプレゼントでくれた悪趣味なあれではないか。
「これ履いてけば敬ちゃんも奈々ちゃんの魅力にメロメロだから」
奈々子は母からそれを受け取って顔の前に持ち上げる。
「いや、パンツじゃん」
見ればわかるでしょと言うように母は小首を傾げる。
「なんでこれ?」
「特別な日にしたいって思った日は特別なものを身に着けるといいのよ」
「どういうこと?」
母は肩をすくめた。
「さあ?」
自分で言ったくせに疑問で返すとは何事か。父親がくれたプレゼントを奈々子がいっこうに履こうとしないから、敬輔のことにかこつけて父が帰ってくる前に一度は使用したんだぞという免罪符が欲しいのではないだろうか。疑るような視線を送っていると母に肩を叩かれた。
「とにかく試してみる価値はあるわ。他にいい方法も思いついてないんでしょ?」
確かにそれはそうだ。
「わかったよ。でも一回だけだよ」
恋愛相談が思わぬ結末を迎えた。
奈々子はおやすみと言って自分の部屋に戻る。
「ま、なんとかなるでしょ」
消極的なことを考えても解決するわけじゃない。母の言われた通りにパンツを履き替えてベッドの中に潜る。
「後は野となれ山となれ」
敬輔のことを考えるのをやめて、明日のお弁当のことを考える。
明日は大好きなアボカドが入っているだろうか。父の影響で好きになったアボカド。あれが入っているだけで授業に臨むテンションが変わってくる。
そんなことを考えていたら、不意に下半身に違和感を覚えた。
下半身というか、どうやら違和感の原因は自分の下着のようだ。何かが通り抜けるような、風が吹いたかのようなそんな不思議な感覚。
もぞもぞとズボンの中に手を入れて確認してみるが、原因が分からない。視認してみても変化は見つからない。
おいおい。
もしかしておかしなパンツなんじゃなかろうかと訝しむが、ちょうどその頃家出していた睡魔が帰ってきたものだから、奈々子は目を開けていることができなくなった。
まあ、いいでしょう。
きっと気のせいだったんだなとひとり納得して、甘木奈々子は眠りに落ちた。
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